検索 ふたたび穂高神社 4<泉小太郎伝説の実際(101)>

泉小太郎研究家

2022年06月02日 18:35

鍬、機道具、布とともにあったおかげで、この穂高神社の草創期が弥生時代後期もしくは古墳時代において成されたとも考えられ、その中に犀角があることが、この時代に確かに「犀信仰」があったことが証明されたと言ってもいいと僕は考えます。

三年前に、穂高神社の犀の銅像をみて、犀の角を探しあるきました。

 
田沢神明宮で、「犀の広鉾」という表記により、青銅器ではないかとおもいあたり、海ノ口神社で銅戈を発見して「犀の角」は銅戈であるという新説にいきあたって、まわりまわってのスタート地点で発見された「犀角」

はっきり言って、3年前にこれを発見したところで何も感じなかったと思うのですが、3年間、探しに探したからこそ、これが銅戈を模したものである可能性を痛感し、つまりは弥生時代もしくは古墳時代を今に伝えた神宝であることが発見できたのだと思います。
この発見自体は、まだ誰も提唱していないはずで、僕としてはこの発見のために延々と犀に導かれたのではないかとすら思うのです。
 
「鉄の鍬」「機の道具」そして「犀角」 古代の神宝。言い換えると
「鉄の鍬」「機の道具」そして「銅戈」 
「衣」「食」「住」ではなく「衣」「食」「信」ですね。
この地に伝わる確かな古代の開発時代の遺品です。

ただ、今回穂高神社に訪れて、一つの心配があります。
おそらくは、「穂高神社史」にもあったように、この「犀角」がなぜ伝わっているかについて、由緒にも伝承にもなにも残っていないため、「犀角」を神宝から外し、鋤、鍬だけが神宝とされていたり(穂高神社略記より)、泉小太郎像が隅に追いやられたり(気のせい? 前はもっと違う場所にあった気がします)している気がします。
犀角は鉄の鋤と、機とともにあるから、意味があり、さらに鉄の鋤、機も犀の角とともにあるから、この穂高神社の縁起が、古代は弥生(ローカルの弥生時代)もしくは古墳時代の太古からの地続きだと伝承されうるのです。
これは、僕の邪推でしかないかもしれません。でも後世の研究家が何度も、考察できるように、是非ともこの3つは離すことなく、展示室ではなく、できれば本殿に泰安し、信仰しつづけて欲しいと思うのです。
 
また泉小太郎との関係も、おそらくなんの由緒も残っていないため、フェイドアウト的になっているかもしれませんが、犀角が(銅戈の代替物が)ここにある以上、そして、地理的な関係性により、この地を開発したのは、泉小太郎と保高見熱躬と九頭子であるのは間違いないかと僕は考えます。ぜひ、威信をもって飾っていただければとも思うのです。
保高見熱躬も九頭子も間違いなく、安曇族です。その安曇族が命じて、現地の泉小太郎がこの地を開拓したのです。外来部族と地元部族の融合を表す象徴としても、昨今、合併した安曇野市の中では、象徴的な存在になるとも思うのです。



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