検索 犀の角をもとめて 1<泉小太郎伝説の実際(102)>
「犀の角」を探しはじめて3年間。「犀の角」というキーワードにつられて、こんなにも泉小太郎伝説を深掘りすることになろうとは思いもしませんでした。
田沢神明宮の「犀の広鉾」という表現と、海の口神社で発見した「銅戈」により、犀の角は「銅戈」ではなかったかと推論するに至りました。
その後、長野市に転勤することになりましたので、銅戈の発見で一躍有名になった中野市の中野市博物館に家族で行きました。
すでに何度も画像をのせましたが
レプリカの銅戈の金色の輝きに青銅器という概念を覆していただきました。
青銅器という名からは、青サビの古ぼけた印象を受けますが、青銅というものは精製されたときには金色に輝く金属なのです。
非常に美しく、かつ存在感があり、制作するのには高い技術が必要とされます。当時の辺境の地である信濃ではみたこともない「金属」という物質があたえた影響力は多大なものであったに違いありません。現にこの銅戈を模した「石戈」も出土していますので、憧れによる模倣もあったと考えられます。あるいは祭器で使う際に金属を生産できなかった場所では石によって模倣していたとも考えられます。
さて、この銅戈という文化はほかの青銅器にくらべて非常に限定的な広がりしかもたず、つまり、出どころがわりとはっきりしています。
銅戈の出土一覧はこちらのページが完璧ですのでご確認ください
銅戈の出土一覧
銅戈出土地のマップ
ほぼ九州の北部から関西は大阪湾周辺まで。もちろんこれからの発掘により、その範囲は覆されていくかもしれませんが、今のところ長野というのはこの範囲から特異的に別の場所で、他の発掘現場からは飛び地的に離れた場所からの発見となります。
こうなってくると、文化圏の移動というより、ある個人もしくは、ある小さな集団がもってきたとしか考えられません。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次は
こちら
関連記事