検索 田沢神明宮縁起3 <泉小太郎伝説の実際(24)>
次に。
『(要約)猿田彦としても知られる道祖神が授けた小太郎が持っていた「犀の矛」を鎮めて神明宮前に、犀の神を祀った。
そこを「犀の神原」と云う。一の鳥居の傍らの岸部である。猿田彦は、導きの神であり天照大御神の守りの神である。
船の守りの場合は「舟魂」ともいうので、あまの岩舟を造って天照が招来するときのために、ここに置いた。
のちに、それは長い石となり船石と云う。
(この船石は)天文の頃、悪徒が石工のために矢穴を掘ったけれども壊れることなく即時に眼がくらみ人家にはいって死んだ(と伝えられている)』
と途中から田沢神明宮にあった岩船の説明になる記述がある。
ここで、道祖神と猿田彦が出てくるのは、江戸時代までに進んだ神様と神様を結び付けたり(習合)する流行の流れで出てきた思想で、この時は「犀の神」を「塞(さい)の神」(道祖神のこと)と結び付けられたと考えています。
江戸時代には道祖神信仰と、この「犀の神」信仰の融合があったと考えることができます。
道祖神と猿田彦はどちらも道路案内の神として、二つの神は結び付けられています。
これもいずれ考察しますが
「小太郎殿持ちたもう犀の矛を鎮めて神明社の前面に犀の神を勧請したまう」
この一文。これも震えましたね。
小太郎が持っていた「犀の矛」を神明社前面におさめ、ここを犀ノ神原とし祀るとあります。
ここへきて初めて「犀の角」が、何らかの形として実在していたことが判明しました。
もともと「犀」というものを空想していた僕としては、
説が立証されたことになり、こんな風に自分の空想が肯定されることってあるのかと不思議にさえ思いました。
犀の矛として納められたものを、祀っている。
縁起ではその後、この場所が「円満寺」として神明宮と併設される様がありますので、
この神明宮の中では重要なポジションにあったと想像されます。
また、これは僕の全くの想像ですが、「船石にあったへさきを削った痕跡」と、
この「犀の矛」と「舟石」のことを同時に描いている文章から、
もともと一つのものであった「犀」を「角」と「胴体」に分け、
「角」の方を「犀の矛」としてまつり、
「胴体」のほうを「岩舟」としてまつったのではないかと考えました。
田沢神明宮縁起の別の記述箇所にも磐舟の場所を「犀の神原岩舟の」とあることからもそれをうかがうことが出来ます。
ただ、これらの検証は、「犀の角」が見つかって船石と石の組成をくらべない限りこれを立証できないのですが
いずれ、これを検証していく旅になるとは、この時点では想像していませんでした。
結論を先に述べておくと、この岩舟と犀の角を関連づけてしまったことで、
今後発見される事象に対して、大きく遠回りをすることを余儀なくされてしまったのですが
遠回りすることで発見できたことも多いので、
この誤解は
必要だったと今では思います。
昔の田沢神明宮の予想図を簡単に書いておきましょう。
いずれ書き直します。
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