検索 知りたくなかった「天文年間」2 <泉小太郎伝説の実際(29)>
天文年間にこの地になにが起きたか。
詳細は専門家に任せますが
天文10年 海野平の戦いで本家海野氏が断絶。
そこから 小岩岳城の戦いもふくめ最終的には
天文22年 刈谷原城の攻防で、刈谷原城、塔の原城、光城、田沢城、会田城が落城
この期におよんで 鎌倉時代に海野氏から分かれた
中信海野5家 苅谷原氏 塔の原氏 光氏 田沢氏 会田氏
が滅亡する。
光城山を調べた時に出てきた海野氏が関係してくるなんて思ってもみませんでした。
海野氏も調べると、なんと平安時代からの系譜をもつ古い氏族です。
名前に小太郎の名前が散見されますので、千曲川沿いの小太郎伝説は海野氏のことかもしれません。
(小泉小太郎伝説についてはいつか述べます。)
とにかくここで海野氏が完全断絶します。
さて、話をもどして
天文年間。
実はこの地は、天文10年~天文22年までの12年間にも及ぶ戦乱に巻き込まれてしまっていたのです。
さらに調べてみると、ここが本当に書きたくないのですが、
武田信玄は「乱妨取り」で知られていたということなのです。
『乱妨取り』 (ウィキペディアより)
『乱妨取り(らんぼうどり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、
戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取)と呼称された。
当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。
人狩りの戦利品が戦後、市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、
褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。』
つまり、戦乱という名の略奪行為が認められており、それを目的に従軍した人々こそが「悪徒」だったのです。
前述した小岩岳城の戦いの中で武田側の記録「勝山記」にはこうあります。
「この年も信州へ御働きを候、小岩岳と申候要害をせめとしめされ候、打取る頸五百余人、足弱取る事、数を知らず候」
足弱とは女子供のことであります。
間違いなく、略奪、人さらい、しかも12年間も。
しかも、さらって売るために市がたったということで、
このさらわれた人たちは人身売買されて散り散りになってしまったのです。
武田信玄のイメージがガラッと変わってしまいました。
この事実を知るとあの武田信玄の名言「人は城、人は石垣、人は堀」も違った言葉で聞こえます。
(ちなみにまさにこの記事をUPする今日の信濃毎日新聞には
川中島の合戦時に天文24年に 川中島の戦費負担として
武田信玄が臨時税として小国に数億円要求した文書が出てきたという記事が載っていました。)
武田信玄が信州に行った壊滅的な略奪行為を知ってしまった身としては
信州人が武田信玄をことさらに美化するのには
かなり抵抗を覚えます。
この武田軍については いずれまた「その後の武田軍」という記事を書きたいと思います。
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