検索 知りたくなかった「天文年間」3 <泉小太郎伝説の実際(30)>

泉小太郎研究家

2022年03月01日 19:59

さて、武田軍の略奪行為がこの天文年間に吹き荒れたということを
知って田沢神明宮縁起を読み直すと

田沢神明宮縁起の中身もガラッと変わってきます。
離散はただ単に村が寂れたわけではなく
この戦乱期に散り散りになった村民のことで
分社もしかたなく信仰を守り継ぐために行った行為でしょう。

そして、神明宮の焼失は火事などではなく
戦乱によって略奪され燃やされたということで
「犀の矛」も神宝も奪われ、その際に古代の記録も消失したのでしょう


その後、神社を修補できなかったのは住民の信心が廃れたという意味ではなく
そもそも、その地を修補すべき住民がほぼ壊滅していなくなってしまっていたということでしょう。

これも豊科町誌にのっていた民話ですが
「田沢神明宮の岩舟を傷つけようとノミを入れたところ血が噴き出た」とあります。

この血が噴き出るという表現が、まさにこの地に起きたことを物語っていると思えます。

さらに追い打ちをかけるようにして、

文禄年間(1593年から1596年まで)天文の戦乱から40年後に
この地の犀川が氾濫し
田沢村の半分ほどが流され消滅して分断されてしまいます。

 これは、もう、立ち直れない。

そして、この記事を書いている際に、気が付いたのですがこの文禄の川の氾濫は
ひょっとしたら人災だったのではないでしょうか。

犀川のほとりで暮らしていた人々は
犀川の恐ろしさも知っていた。
だから年に一度の祭りには近隣総出で
犀川をチェックして歩いた。
たしかに縁起にはこう書いてあります。

『里の民は皆で厳重に祭祀を務めた 人々は正直にて日夜滞りなく神慮を涼め奉つ』

この一文は治水を継続させるために
祭祀というかたちで習慣として川をチェックしていたことを表したものではないでしょうか。

そう思って田沢神明宮縁起を読んでみると
具体的に書いてある場所があります。

前回紹介した祭りの風景を描いた箇所です。
初めの時はこの内容に気が付かず読み飛ばしていました。

『(要約)水が干上がる毎年3月25日に(のちに神託を得て7月16日に変更)祭りを行った。
田沢村の東山(光城山が想定される)の頂上と、
犀川沿いに灯りを照らして竜神を祀るように小太郎が命じた祭りである。
文禄のあたりから行事が出来なくなって水難が多くなった。
また、他の村の協力もなくなって今はなんとか田沢村だけでおこなっている』

とあります。

以前、述べた祭りは単なる豊穣の祭りではなかったのです。

確かに日程がおかしい。3月25日と、この地方では春になるまえ、
雪解け水の増水が始まる前で、豊穣の祭りではない。

雪解けの前の水量が少なく岸が干上がって見えている時に
近くの村々の人々を集めて一斉点検をしろと「ひかるくん」は命じたのです。

それが、7月16日に変更されたのは夏の台風前に修繕を行う必要があるということがあるということで
後世になって修正されたのでしょう。

そして、天文の戦乱後、その風習がなくなるととたんに水難が多くなりはじめ
ついには文禄年間、大決壊をおこし、田沢村は分割し流されます。

ひかるくんの治水は決してその一時ではなかったのです。
治水は続けることに意味があると知っているかのように
祭りという形で、決壊の危険を点検し、補修が必要な箇所には補強するなどの補修をを命じたのです。

そして、それは里人に「厳重に」守られて西暦400年~西暦1590年の1100年ものあいだこの地では
治水に成功していたのです。
仁科濫觴記には、「ひかるくん」の治水工事の前には幾度も氾濫したという記述もありますから
完璧ともいえる治水システムです。

それを天文年間の 武田軍、いや、(時代もあるからあまり責められないので)「戦乱の世」が
やってきて村人が壊滅し、祭りやそんな治水活動が途絶えた結果
氾濫を起こしたのではないでしょうか。

僕は戦乱を憎みます。
この戦乱がなければ確実にひかるくんの伝説は残っていたことでしょう。



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