検索 銅戈(どうか)7<泉小太郎伝説の実際(87)>
海ノ口の銅戈の発見当初の状況をより詳しく調べるために、大町市の図書館に向かいました。
この地方の様々な図書館を巡ってきましたが大町市の歴史に関する蔵書は素晴らしく、
2階の閲覧室にこもって1ヶ月でも読みあさっていたいと思えるほどの本が並んでいました。この地区の歴史研究が盛んに行われている証拠です。
市立大町図書館
ただ調べていた海ノ口神社の銅戈の発見に関しては、疑問符のつく内容がたくさんありました。
すこし説明します。
昭和初期、大町の学校の校長であった一志茂樹氏(いっし しげき、 1893年11月12日 - 1985年2月27日)はある時、海ノ口上神社の神宝の中に「銅戈」を発見します。
この発見は当時、銅戈発見最北の地として、弥生時代の文化を知る上での大きな材料となるものでした。
しかし発掘されたものではなかったためどこからの出土かわからず、その当時のはやりの説としてその出土地は姫川流域であるとされました。この主張は主に大場磐雄氏(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975年6月7日)によってなされました。
この姫川からの進入説は大場氏が主張する、武南方(諏訪神)の日本海側からの流入や、安曇族の日本海側からの流入といった今でもある「流行」によるものですが、元を辿れば戦前の皇国史観により、より古い部族のほうが高貴であるという歪んだ歴史観により、日本海側の部族の流入のほうが歴史は古く、その時代からこの地は栄えていたとすることを地方がのぞんだ背景があります。
一志茂樹氏は、海ノ口神社の社家が幕末時に糸魚川根知の宮の神主をしていたことがあることから日本海側から持ち込まれたという説を唱えており傍証として「銅戈は発見時に根知の神社の古文書に包んであった」(大町史)ことをあげていますが、伝承中に管理者が神宝保存のために包む行為は普通にあり得ますので、発見場所を糸魚川周辺とするのにはかなり無理があると思います。
現在では弥生時代の遺跡が姫川沿いからまったく出土しないことなどから、南からの流入や千曲川方面からの流入説のほうが一般的になっています。
この後、大町市博物館にも行きました。
大町市博物館 資料館文化財センター
所蔵品として海ノ口神社の銅戈がある場所です。
大変、親切に対応してくれましたが「銅戈をみることができませんか」と尋ねたところ、すぐには見せられないところにしまってあるということ(事前の申し込み等が必要)で見ることが出来ませんでした。
また「銅戈を包んでいた古文書があったはずですが」と尋ねたところ
「そういうものは数十年前の時点で既に見当たらなかった」ということで
史料保存ができていないためか、もともとそんな古文書がなかったのか、どちらにしろ銅戈が海ノ口神社に伝わった経緯はわからないままでした。
包まれていたという古文書が残存すれば、もっと具体的な内容がわかったかと思いますが、現在は確認できません。
発見当初は磨かれたように黒光りしていて腐食もほとんどなかったということですが、今(?)の画像をみると緑のサビに覆われた状態になってしまっています。
ちなみに現在?海ノ口神社の銅戈の画像はこんな感じです。
保存状態が悪かったのではなかろうかと思います。発見当時、大場磐雄(おおばいわお)氏は拓本を取るなど、今としては問題のある行為を当時おこなってしまっていたりもしています。近年の研究でめずらしい鹿の紋などもみつかっているらしいですが、博物館に誰の目にも触れられず置かれている状態は非常に残念で少なくとも展示するか一刻も早く海ノ口神社に戻し神宝として信仰の対象として戻してあげたいと僕は思うのです。
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