検索 泉小太郎の開発地域 8<泉小太郎伝説の実際(96)>
田沢神明宮縁起にあるように尾入沢まで水が逆流したとした場合の洪水範囲をしめしてみました。
この洪水推定地域の545mの標高線地図に次の4つの場所をいれてみます。
「穂高神社」「田沢神明宮」「川会神社」 そして 光城山
いかがでしょうか。
「田沢神明宮」の目の前にある田沢川(尾入沢と推定)まで洪水があったとした場合の標高を線で結ぶと
「穂高神社」がその線上に現れ、古代の洪水警戒地域の冠水域の岸に立つ場所だとわかります。
「川会神社」はそれより北部の冠水被害の地域に立地していることがわかります。
川会神社は何度も洪水によって流されてしまっており、古代の位置はわかっていません。洪水被害があったということは、おそらく現在の場所よりも少し低地にあったことが明らかです。なぜならば普通洪水に見舞われた場合、その地よりは高台に施設を移すことが常識であるからです。また、「川会」の「川が会う」とは農業用水を確保するために整備された「農具川」と「高瀬川」の合流地点という意味でした。古代の合流地点は不明ですが、現在の地図を参照すると上記地図にマーカーしたあたりと捉えられるのではないかと考えます。
また「信府統記」や「田沢神明宮 縁起」によれば、泉小太郎は田沢の地で治水計画を立てました。「光城山」に登りそれを監視メンテナンスしたとすればこの湖水を一望できる絶好の位置だったと思われます。
いままで説明しましたとおり「仁品王」および「九頭子」が行った開発計画は、農具川による水田開発が開発の中軸であったとしましたが、その完了時に川会神社は建てられました。また農具川水系の開発に「仁科神明宮」も関わっているのではないかという仮説も述べました。
しかし、そこまで農業用水路を完成させたあとで、大雨の際に、水が遡って農具川を逆流する様が問題になったのではないかと思うのです。
それによってこの地域の洪水対策の工事の必要性が論じられ、この地域の川底をさらい流量を増やす工事が「泉小太郎」に命じられたと僕は考えます。
そう考えてくると、「川会神社」も「穂高神社」も「田沢神明宮」も、そして「仁科神明宮」も同じ開発計画の中で祀られた神社であると考えてもよいのではないでしょうか。
※※※※※
この田沢神明宮の記述にあった尾入沢まで逆流がきたということをたよりに545mの標高線を引っ張った際に穂高神社が浮かび上がった時には衝撃が走りました
川会神社はこじつけ感を感じるかもしれませんが、実際川会神社の洪水被害や、もとの立地は不明なのです。この545mの標高を意識するずっと前に、川会神社の古代の本来の場所を考えたりしていました。その時に今より南の川沿いにあったのではないかと想像していましたので自分としてはこれも衝撃でした。ちなみに川会神社の江戸時代までの立地場所はいくつか跡地として残っています。幾度も洪水によって流されては建てられたという歴史を感じることもできます。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次は
こちら
関連記事