2022年05月28日
検索 泉小太郎の開発地域 9<泉小太郎伝説の実際(97)>
さて、田沢神明宮の縁起をもとに田沢神明宮の麓の尾入沢まで水が逆流したと考えた場合このような湖のような氾濫地域が出現したと考えられます。ではここでの治水はどのようにおこなったのでしょうか。
氾濫地域をみると洪水の原因となる場所を推察することができます。
地図上矢印の部分です。

実際にこの地域をみてみると

このような川です。
この写真ですが、勘違いしていただきたくないのですが流れは写真手前から写真奥に向かって流れています。この写真の中央あたりに見える橋がちょうど地図上の矢印にあたる部分で、この橋に向かって流れを集め、山に向かって流れて行くのです。ちょうど前方に見えている山々が糸魚川静岡構造線によってできた断層の山と言っていいでしょう。
安曇野に降った全ての水はここに集まってくるのです。
この地図上の矢印の部分は山清路ほどの景勝ではないものの、実は(つい先ほど気づいたのですが)日本の真ん中を縦断する糸魚川–静岡構造線の真上であり、川の流れ下るはずの北東側は隆起していたはずで、すこし盛り上がっていたのではないかと思います。
実際、この地の両岸に迫り出した山や岸はやや下流に向かって高度を上げているようにも見えます。
仁科濫觴記の記述では、雪解け水が乾く3月末から秋の末までの乾水期に川底の岩を砕き砂を攫い流すという工事スタイルでしたが、この地をみるとその工法が容易に想像できる風景が広がります。

ここは水利の難所であり、過去幾度にもわたって護岸工事をおこなっており、その痕跡は「龍門淵」としてもしられています。

さらにこの地を訪れた時がちょうど大雨のあとで近くには流木が散乱していました。

この風景は田沢神明宮の縁起にある年に一度(川のメンテナンスのため)川のほとりを松明で灯した(木を燃やした)という伝承も類推されます。この場所付近には流木がこのように溜まったことが容易に想像できます。流木は護岸を破壊する要因であったり、水流を止めダムのように水位を高めてしまう結果に結びつきます。
泉小太郎開発前にはこのような流木がたまり、ダムのような状態だったかもしれません。
そこで泉小太郎は木々を取り除き土砂を攫うことでこの地の水流をスムーズにさせた可能性が高いと考えます。
この地は糸魚川―静岡構造線上の切れ目といってもいい場所です。ここで安曇野の水はすべて合流し、この後山の谷間をすすみ、山あいを超え善光寺平まで流れていきます。
田沢神明宮由緒にも次のように開発初期が語られています。
略して訳すと
「田沢において湖水に乗り出し、(邪悪なものが)鱗怒りて毒気を吐きかけ逆流する波を起こしたため、それ以上進めずしばらく退いた。ここが尾入沢(おのいりさわ 征矩規峡せいのりさわと比定)という。
小太郎は「天照大神(神明と表記)に願ってから犀の広矛で鱗魔を撃ち、水道を開いた」とあります。
田沢のあたりまで逆流があったことをしめしており、そこを開発するはじめとして犀の広鉾を用いて、天照大神(神明と表記)に祈ったという表記となります。逆にいえばここまで逆流があったとするのであれば、標高545mまでは水が来た証拠となり、先ほどの湖のような冠水地域が発生したことになるはずです。
いかがですか?
こここそが、開発地であったと思いますし、糸魚川静岡構造線を川が乗り越えるという、とんでもない要所開発だったことが偲ばれます。この糸魚川静岡構造線にこの切れ目がなければ、本当にこの安曇野は湖だったはずですから、古代としては非常に目立った場所であったはずです。
しかもです、この場所の開発方法は実はまだ簡単な方法で乾水期に川底の石をさらったり砂を流したりすればいいのです。
人力さえあれば、古代でも十分にできた開発ですし、仁科濫觴記にはこの方法のみが述べられています。
また、仁科濫觴記に幾度となく「伐」の字が使われますが、まさに「人」の力と銅「戈」を象徴するために、わざわざ入れられた言葉である気もするのです。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら
氾濫地域をみると洪水の原因となる場所を推察することができます。
地図上矢印の部分です。

実際にこの地域をみてみると

このような川です。
この写真ですが、勘違いしていただきたくないのですが流れは写真手前から写真奥に向かって流れています。この写真の中央あたりに見える橋がちょうど地図上の矢印にあたる部分で、この橋に向かって流れを集め、山に向かって流れて行くのです。ちょうど前方に見えている山々が糸魚川静岡構造線によってできた断層の山と言っていいでしょう。
安曇野に降った全ての水はここに集まってくるのです。
この地図上の矢印の部分は山清路ほどの景勝ではないものの、実は(つい先ほど気づいたのですが)日本の真ん中を縦断する糸魚川–静岡構造線の真上であり、川の流れ下るはずの北東側は隆起していたはずで、すこし盛り上がっていたのではないかと思います。
実際、この地の両岸に迫り出した山や岸はやや下流に向かって高度を上げているようにも見えます。
仁科濫觴記の記述では、雪解け水が乾く3月末から秋の末までの乾水期に川底の岩を砕き砂を攫い流すという工事スタイルでしたが、この地をみるとその工法が容易に想像できる風景が広がります。

ここは水利の難所であり、過去幾度にもわたって護岸工事をおこなっており、その痕跡は「龍門淵」としてもしられています。

さらにこの地を訪れた時がちょうど大雨のあとで近くには流木が散乱していました。

この風景は田沢神明宮の縁起にある年に一度(川のメンテナンスのため)川のほとりを松明で灯した(木を燃やした)という伝承も類推されます。この場所付近には流木がこのように溜まったことが容易に想像できます。流木は護岸を破壊する要因であったり、水流を止めダムのように水位を高めてしまう結果に結びつきます。
泉小太郎開発前にはこのような流木がたまり、ダムのような状態だったかもしれません。
そこで泉小太郎は木々を取り除き土砂を攫うことでこの地の水流をスムーズにさせた可能性が高いと考えます。
この地は糸魚川―静岡構造線上の切れ目といってもいい場所です。ここで安曇野の水はすべて合流し、この後山の谷間をすすみ、山あいを超え善光寺平まで流れていきます。
田沢神明宮由緒にも次のように開発初期が語られています。
略して訳すと
「田沢において湖水に乗り出し、(邪悪なものが)鱗怒りて毒気を吐きかけ逆流する波を起こしたため、それ以上進めずしばらく退いた。ここが尾入沢(おのいりさわ 征矩規峡せいのりさわと比定)という。
小太郎は「天照大神(神明と表記)に願ってから犀の広矛で鱗魔を撃ち、水道を開いた」とあります。
田沢のあたりまで逆流があったことをしめしており、そこを開発するはじめとして犀の広鉾を用いて、天照大神(神明と表記)に祈ったという表記となります。逆にいえばここまで逆流があったとするのであれば、標高545mまでは水が来た証拠となり、先ほどの湖のような冠水地域が発生したことになるはずです。
いかがですか?
こここそが、開発地であったと思いますし、糸魚川静岡構造線を川が乗り越えるという、とんでもない要所開発だったことが偲ばれます。この糸魚川静岡構造線にこの切れ目がなければ、本当にこの安曇野は湖だったはずですから、古代としては非常に目立った場所であったはずです。
しかもです、この場所の開発方法は実はまだ簡単な方法で乾水期に川底の石をさらったり砂を流したりすればいいのです。
人力さえあれば、古代でも十分にできた開発ですし、仁科濫觴記にはこの方法のみが述べられています。
また、仁科濫觴記に幾度となく「伐」の字が使われますが、まさに「人」の力と銅「戈」を象徴するために、わざわざ入れられた言葉である気もするのです。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら
泉小太郎を調べまくる 3年目のまとめ<泉小太郎伝説の実際(106)>
検索 犀の角をもとめて 4<泉小太郎伝説の実際(105)>
検索 犀の角をもとめて 3<泉小太郎伝説の実際(104)>
検索 犀の角をもとめて 2<泉小太郎伝説の実際(103)>
検索 犀の角をもとめて 1<泉小太郎伝説の実際(102)>
検索 ふたたび穂高神社 4<泉小太郎伝説の実際(101)>
検索 犀の角をもとめて 4<泉小太郎伝説の実際(105)>
検索 犀の角をもとめて 3<泉小太郎伝説の実際(104)>
検索 犀の角をもとめて 2<泉小太郎伝説の実際(103)>
検索 犀の角をもとめて 1<泉小太郎伝説の実際(102)>
検索 ふたたび穂高神社 4<泉小太郎伝説の実際(101)>
Posted by 泉小太郎研究家 at 08:16│Comments(0)
│泉小太郎伝説の実際