検索 放光寺2<泉小太郎伝説の実際(63)>

泉小太郎研究家

2022年04月04日 20:04

前回、この放光寺の丘で「安曇平の雲海」をみて
「この地域は本当は、昔 みずうみだったのでは」という仮説をたてていたと述べました。。

この経験があったため
「泉小太郎伝説」にある「この地域が湖だった」という物語は
ごく早い時期に「空想である」と実感できましたし
「その地域の特殊な自然環境が伝承をつくりだす」ということも
体感として理解することができました。

その高校時代を過ごした場所が
まさに放光寺の元敷地と想定されるのです。
(グーグルマップではうっすらと「放光寺」と記載)

信府統記では「泉小太郎が育った場所」とされる放光寺です。

しかし実は
この「放光寺」こそが
信府統記を信ずるに値しないと
一蹴してしまうことになった原因の場所だったのです。


それは、信府統記の中にある次の一文です
「景行天皇十二年、放光寺で育った泉小太郎は〜」

この表現は明らかに、でたらめだとすぐわかりますよね。
なぜなら景行天皇といえば、古墳時代早期もしくは弥生時代晩期ですから
放光寺という仏教施設は存在しているわけがありません。(笑)
(日本への仏教伝来はこの2〜3世紀後くらい)
この一文が冒頭にあったために、僕は信府統記をでたらめの伝承としていました。

これすらも運命的な何かを感じます。

学生時代、この地が湖だったと空想し、
この探究のきっかけとなった場所がまさに放光寺で
泉小太郎を知り信府統記(しんぷとうき)は
でたらめだと一蹴したきっかけが、この放光寺で
遠回りをして 仁科濫觴記(にしならんしょうき)を知り
各地を廻り、仏崎を見つけ、もう一度振り出しに戻ってきての
放光寺なのです。



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