検索 廃仏毀釈1<泉小太郎伝説の実際(66)>

泉小太郎研究家

2022年04月07日 20:22

廃仏毀釈との出会いはまったくの偶然でした。
泉小太郎の祠を発見してからしばらくたったあと
兄の本棚にあった本を見るともなしにみていました。

その中の一冊の 内田樹 著 「日本習合論」を読んでいた時
何気なく書かれた一文に衝撃を受けます。

廃仏毀釈について論じるその論稿の中で、このような一文があるのです。
「廃仏毀釈運動が熾烈だったのは鹿児島、宮崎、土佐、隠岐、松本です。」(日本習合論)
「えっ なんでここに松本?」皆さんも違和感を受けませんか?

廃仏毀釈は歴史の授業の際にほんの少しだけ触れたことがある言葉でした。
僕はこの廃仏毀釈は
明治政府の政策で、神社への信仰に一本化し天皇崇拝を推し進めるため
全国で施行されたものと勝手に解釈していましたが
この一文を見る限り
とても全国とは言えないものだと直感します。
それほどこの「松本」という地名に違和感を感じます。

まずは廃仏毀釈について調べてみましょう。

廃仏毀釈とは ウィキペディアより

明治期の神仏分離と廃仏毀釈
大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた
太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)
および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの
政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた
仏教施設の破壊などを指す。

つまり僕が勝手に明治政府の政策だと思っていたものは
公的な政策などではなく政府の意図を拡大解釈した民衆運動だったというのです。

そして調べてみてわかったのは
松本における廃仏毀釈は
そんな民衆運動でも、何かの理念による崇高運動でもなく
保身によってなされた忖度(そんたく)に過ぎなかったことが判明するのです。

先程の「日本習合論」の続きを引用します。

(中略)水戸藩や津和野藩は国学がさかんで
幕末から廃仏運動のフロントランナーでしたから
廃仏運動がエスカレートした理由はわかります。
けれども、その他の地域ではどうして廃仏運動が行われたのか、
必ずしも理由が定かではありません。

たとえば、松本藩知事の戸田光則はファナティックな廃仏運動を推進しました。
それは松本藩が戊辰戦争のときに幕府につくか薩長につくか
はっきりした態度をとらずにいたので
明治政府に忠誠を誇示する必要があったからだとされています。
戸田はもともと松平姓で徳川家の親戚でした。
ですから、神仏分離令を「拡大解釈」することで、新政府に恭順の姿勢をアピールすることには必然性があったのです。
戸田の廃仏運動は寺院整理にとどまらず、盆行事の廃止、位牌や仏壇の撤去まで行って、ついに領内の八割の寺院を廃寺としました。( 日本習合論より)

という驚愕な事実が浮かび上がるのです。
この地区で生まれ育ったのにまったく知らなかった事実でした。
しかもてっきり全国的に行われたことかと思っていたら
松本が特異的に激しく行われたのです。



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