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2022年06月09日

検索 犀の角をもとめて 4<泉小太郎伝説の実際(105)>

僕のストーリーとしては、大町に仁品王の開発団の開発担当大臣として赴任してきた治水を得意とする「九頭子」は「泉小太郎」とともに安曇野地域を開発しました。
開発の初めの儀式に使われた銅戈は開発が終わる時にはその地に神宝として祀られました。

「九頭子」は何本か持ってきた1本の銅戈を泉小太郎に渡しこれが「田沢神明宮」の神宝となります。
その後、武田軍の侵攻の16世紀まで田沢神明宮の境内にあった円満寺に祀られました。
その銅戈の神宝化はこの地に残り 穂高神社では「犀角」として伝承されました。
またこれはまったくの予想でしかありませんが川会神社にも神宝として「銅戈」が伝わっていたのではないかと思いますが、川会神社は氾濫のため流されてしまいましたので神宝もその段階でなくなってしまいました。


田沢神明宮の銅戈はその後、武田軍に攻め込まれた際に紛失したか、海ノ口神社にまで逃げ延びたかします。
今回は割愛させていただきましたが、仁科濫觴記には諏訪眷属による白馬開発が描かれていますので、ひょとすると白馬開発する中で諏訪眷属にも銅戈を渡され、それが「海ノ口神社」の銅戈として伝来したかもしれません。

その後、九頭子は開発を小川村、戸隠、中野と広げて、最後に柳沢遺跡の銅戈として埋設されたのではないかとも想像します。これはあまりにもこじつけですので全く信じてはいないのですが、僕の予測では今後、小川村や戸隠地区あるいは須坂もしくは中野市あたりからも1本また1本と単数の銅戈が発掘もしくは神社から出てくるのではないかと予測しています。
その時に、この説が実証されたと思ってください。

柳沢遺跡の銅戈8本の内1本は九州型ですが、これは九頭家の家宝であったのではないかと考えています。九州型の一本は九頭家に大切に200年〜400年ものあいだ伝授されてきて、新造された10本ほどの大阪湾型銅戈と一緒にしておくことで、その神気を新しい銅戈に移していたのではないかと僕は考えているのです。
これらを携えて信濃の地のまだ開墾されていない山間部や難河川部の開発をしては、この地に銅戈を残したのではないかと考えているのです。

これが銅戈、「犀の角」に関しての僕の考えるストーリーです。

さて3年目の検索はこれにておしまいです。



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Posted by 泉小太郎研究家 at 19:46│Comments(0)泉小太郎伝説の実際
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