2022年06月11日
泉小太郎を調べまくる 3年目のまとめ<泉小太郎伝説の実際(106)>
1年目に「安曇の古代」という本で仁科濫觴記に出会い、その後田沢神明宮に辿り着きました。
「犀」をキーワードに信玄軍により壊滅した地を巡ることで泉小太郎が使っていた「犀の広鉾」を探しました。
2年目に「犀の広鉾」が青銅器でないかと推測したものの見つからず「信府統記」に出てくる地名、寺社を巡ることで泉小太郎を調べました。
最後に川会神社に辿り着き、その神社が農具川の開発に関係のある神社だと知り農具川をさぐる必要があると感じ2年目を終えました。
そして3年目
「農具川」をたぐりました。
農具川はまさに農業用水路といった感じです。

その中で仁科神明宮も発見し
川会神社も仁科神明宮もこの農具川水系の開発の際に祀られた神社ではないかと推論しました。
仁科神明宮マップ

仁科神明宮の近くを通る水路への取水口近くの農具川

まったくもっての農業用水路です。
このような水路と高瀬川の合流時点にわざわざ「川会」神社を建てたのです。しかも 式内神社に列せられるはるか古代の神社です。
この水路建設記念に水路保持に建てられた神社としか思えません。

田畑を潤します。

農具川の始まり。

はるか北の仁科三湖と言われる水系の木崎湖から取水される農具川

これより北には白馬山系の山々がそびえています。(撮影時曇りだったのが残念です)
木崎湖に辿り着き
木崎湖の西岸を車で一周しようと回っていると、湖の北端にあたるところに神社があるのを発見しました。
海ノ口上諏訪神社とあります。
海ノ口神社

海ノ口神社で銅戈の発見の看板を発見し

銅戈こそが田沢神明宮に伝わる「犀の広鉾」であったのではないかと推論しました。

また別の角度から泉小太郎の開発地域を探りました。
仁科濫觴記にある「満水の時には湖のようになった」という記述から
この地区のハザードマップを見ました。


そして「田沢神明宮縁起」の中の記述から
田沢神明宮のすぐそばの「尾入沢」まで水が逆流したということを踏まえ
標高545mで線を引くと 見事に「田沢神明宮」「穂高神社」がその線上に浮かび、また水害にあい本来の場所がどこかは不明であるものの「川会神社」もそのラインに浮かびあがるのではないかと考えました。

実際にこの地域をみてみると

このような川です。
この写真ですが、勘違いしていただきたくないのですが流れは写真手前から写真奥に向かって流れています。この写真の中央あたりに見える橋がちょうど地図上の矢印にあたる部分で、この橋に向かって流れを集め、山に向かって流れて行くのです。ちょうど前方に見えている山々が糸魚川静岡構造線によってできた断層の山と言っていいでしょう。
安曇野に降った全ての水はここに集まってくるのです。
この地図上の矢印の部分は山清路ほどの景勝ではないものの、実は(つい先ほど気づいたのですが)日本の真ん中を縦断する糸魚川–静岡構造線の真上であり、川の流れ下るはずの北東側は隆起していたはずで、すこし盛り上がっていたのではないかと思います。
実際、この地の両岸に迫り出した山や岸はやや下流に向かって高度を上げているようにも見えます。
仁科濫觴記の記述では、雪解け水が乾く3月末から秋の末までの乾水期に川底の岩を砕き砂を攫い流すという工事スタイルでしたが、この地をみるとその工法が容易に想像できる風景が広がります。

そして泉小太郎の開発地域は、水利の難所であり、過去幾度にもわたって護岸工事をおこなっている「龍門淵」近辺ではないかと推論しました。

この地を訪れた時がちょうど大雨のあとで近くには流木が散乱しており泉小太郎の開発前はそのような木材がダムのように溜まっていたことは容易に推察できる状況でした。

またここは糸魚川静岡構造線の切れ目を川が乗り越えていくという難所であったことも発見し古代においては目立つ場所であったと推論できます。
このあと開発地域で浮かび上がった「穂高神社史」を調べていたところ
この場所に「犀角」というものが伝来していることを知りました。

右から 機(はた)鍬(くわ)犀角とあります。
この「犀角」を金色っぽく黄色に塗っ、銅戈とならべてみるとこうなります。

穂高神社に伝わる「犀角の原型が「銅戈」だとすると、金箔によって金色に模したものであるところや、付け根から胴に向かって掘られた溝や湾曲した造形などは、かすかに原型の面影をとどめていると言えないでしょうか
実際に「御船館」にいくとその神宝が飾られており比較するとこのようになります。

さて、この銅戈という文化はほかの青銅器にくらべて非常に限定的な広がりしかもたず、つまり、出どころがわりとはっきりしています。
銅戈の出土一覧はこちらのページが完璧ですのでご確認ください
銅戈の出土一覧
銅戈出土地のマップ
ほぼ九州の北部から関西は大阪湾周辺まで。もちろんこれからの発掘により、その範囲は覆されていくかもしれませんが、今のところ長野というのはこの範囲から特異的に別の場所で、他の発掘現場からは飛び地的に離れた場所からの発見となります。
この銅戈の発見の特異性から
おそらく個人もしくは小集団がこの地に銅戈をもたらしたのではないかと類推し
仁科濫觴記にある「九頭子」(くずこ)がその主人公であり
おそらくは九州福岡周辺および大阪湾沿岸にある九頭龍神社 あるいは 戸隠をはじめとする各地域にのこる九頭龍伝説のもととなる民族だったのではないかと推察しました。
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「犀」をキーワードに信玄軍により壊滅した地を巡ることで泉小太郎が使っていた「犀の広鉾」を探しました。
2年目に「犀の広鉾」が青銅器でないかと推測したものの見つからず「信府統記」に出てくる地名、寺社を巡ることで泉小太郎を調べました。
最後に川会神社に辿り着き、その神社が農具川の開発に関係のある神社だと知り農具川をさぐる必要があると感じ2年目を終えました。
そして3年目
「農具川」をたぐりました。
農具川はまさに農業用水路といった感じです。

その中で仁科神明宮も発見し
川会神社も仁科神明宮もこの農具川水系の開発の際に祀られた神社ではないかと推論しました。
仁科神明宮マップ

仁科神明宮の近くを通る水路への取水口近くの農具川

まったくもっての農業用水路です。
このような水路と高瀬川の合流時点にわざわざ「川会」神社を建てたのです。しかも 式内神社に列せられるはるか古代の神社です。
この水路建設記念に水路保持に建てられた神社としか思えません。

田畑を潤します。

農具川の始まり。

はるか北の仁科三湖と言われる水系の木崎湖から取水される農具川

これより北には白馬山系の山々がそびえています。(撮影時曇りだったのが残念です)
木崎湖に辿り着き
木崎湖の西岸を車で一周しようと回っていると、湖の北端にあたるところに神社があるのを発見しました。
海ノ口上諏訪神社とあります。
海ノ口神社

海ノ口神社で銅戈の発見の看板を発見し

銅戈こそが田沢神明宮に伝わる「犀の広鉾」であったのではないかと推論しました。

また別の角度から泉小太郎の開発地域を探りました。
仁科濫觴記にある「満水の時には湖のようになった」という記述から
この地区のハザードマップを見ました。


そして「田沢神明宮縁起」の中の記述から
田沢神明宮のすぐそばの「尾入沢」まで水が逆流したということを踏まえ
標高545mで線を引くと 見事に「田沢神明宮」「穂高神社」がその線上に浮かび、また水害にあい本来の場所がどこかは不明であるものの「川会神社」もそのラインに浮かびあがるのではないかと考えました。

実際にこの地域をみてみると

このような川です。
この写真ですが、勘違いしていただきたくないのですが流れは写真手前から写真奥に向かって流れています。この写真の中央あたりに見える橋がちょうど地図上の矢印にあたる部分で、この橋に向かって流れを集め、山に向かって流れて行くのです。ちょうど前方に見えている山々が糸魚川静岡構造線によってできた断層の山と言っていいでしょう。
安曇野に降った全ての水はここに集まってくるのです。
この地図上の矢印の部分は山清路ほどの景勝ではないものの、実は(つい先ほど気づいたのですが)日本の真ん中を縦断する糸魚川–静岡構造線の真上であり、川の流れ下るはずの北東側は隆起していたはずで、すこし盛り上がっていたのではないかと思います。
実際、この地の両岸に迫り出した山や岸はやや下流に向かって高度を上げているようにも見えます。
仁科濫觴記の記述では、雪解け水が乾く3月末から秋の末までの乾水期に川底の岩を砕き砂を攫い流すという工事スタイルでしたが、この地をみるとその工法が容易に想像できる風景が広がります。

そして泉小太郎の開発地域は、水利の難所であり、過去幾度にもわたって護岸工事をおこなっている「龍門淵」近辺ではないかと推論しました。

この地を訪れた時がちょうど大雨のあとで近くには流木が散乱しており泉小太郎の開発前はそのような木材がダムのように溜まっていたことは容易に推察できる状況でした。

またここは糸魚川静岡構造線の切れ目を川が乗り越えていくという難所であったことも発見し古代においては目立つ場所であったと推論できます。
このあと開発地域で浮かび上がった「穂高神社史」を調べていたところ
この場所に「犀角」というものが伝来していることを知りました。

右から 機(はた)鍬(くわ)犀角とあります。
この「犀角」を金色っぽく黄色に塗っ、銅戈とならべてみるとこうなります。

穂高神社に伝わる「犀角の原型が「銅戈」だとすると、金箔によって金色に模したものであるところや、付け根から胴に向かって掘られた溝や湾曲した造形などは、かすかに原型の面影をとどめていると言えないでしょうか
実際に「御船館」にいくとその神宝が飾られており比較するとこのようになります。

さて、この銅戈という文化はほかの青銅器にくらべて非常に限定的な広がりしかもたず、つまり、出どころがわりとはっきりしています。
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ほぼ九州の北部から関西は大阪湾周辺まで。もちろんこれからの発掘により、その範囲は覆されていくかもしれませんが、今のところ長野というのはこの範囲から特異的に別の場所で、他の発掘現場からは飛び地的に離れた場所からの発見となります。
この銅戈の発見の特異性から
おそらく個人もしくは小集団がこの地に銅戈をもたらしたのではないかと類推し
仁科濫觴記にある「九頭子」(くずこ)がその主人公であり
おそらくは九州福岡周辺および大阪湾沿岸にある九頭龍神社 あるいは 戸隠をはじめとする各地域にのこる九頭龍伝説のもととなる民族だったのではないかと推察しました。
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タグ :泉小太郎
2022年06月09日
検索 犀の角をもとめて 4<泉小太郎伝説の実際(105)>
僕のストーリーとしては、大町に仁品王の開発団の開発担当大臣として赴任してきた治水を得意とする「九頭子」は「泉小太郎」とともに安曇野地域を開発しました。
開発の初めの儀式に使われた銅戈は開発が終わる時にはその地に神宝として祀られました。
「九頭子」は何本か持ってきた1本の銅戈を泉小太郎に渡しこれが「田沢神明宮」の神宝となります。
その後、武田軍の侵攻の16世紀まで田沢神明宮の境内にあった円満寺に祀られました。
その銅戈の神宝化はこの地に残り 穂高神社では「犀角」として伝承されました。
またこれはまったくの予想でしかありませんが川会神社にも神宝として「銅戈」が伝わっていたのではないかと思いますが、川会神社は氾濫のため流されてしまいましたので神宝もその段階でなくなってしまいました。
田沢神明宮の銅戈はその後、武田軍に攻め込まれた際に紛失したか、海ノ口神社にまで逃げ延びたかします。
今回は割愛させていただきましたが、仁科濫觴記には諏訪眷属による白馬開発が描かれていますので、ひょとすると白馬開発する中で諏訪眷属にも銅戈を渡され、それが「海ノ口神社」の銅戈として伝来したかもしれません。
その後、九頭子は開発を小川村、戸隠、中野と広げて、最後に柳沢遺跡の銅戈として埋設されたのではないかとも想像します。これはあまりにもこじつけですので全く信じてはいないのですが、僕の予測では今後、小川村や戸隠地区あるいは須坂もしくは中野市あたりからも1本また1本と単数の銅戈が発掘もしくは神社から出てくるのではないかと予測しています。
その時に、この説が実証されたと思ってください。
柳沢遺跡の銅戈8本の内1本は九州型ですが、これは九頭家の家宝であったのではないかと考えています。九州型の一本は九頭家に大切に200年〜400年ものあいだ伝授されてきて、新造された10本ほどの大阪湾型銅戈と一緒にしておくことで、その神気を新しい銅戈に移していたのではないかと僕は考えているのです。
これらを携えて信濃の地のまだ開墾されていない山間部や難河川部の開発をしては、この地に銅戈を残したのではないかと考えているのです。
これが銅戈、「犀の角」に関しての僕の考えるストーリーです。
さて3年目の検索はこれにておしまいです。
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開発の初めの儀式に使われた銅戈は開発が終わる時にはその地に神宝として祀られました。
「九頭子」は何本か持ってきた1本の銅戈を泉小太郎に渡しこれが「田沢神明宮」の神宝となります。
その後、武田軍の侵攻の16世紀まで田沢神明宮の境内にあった円満寺に祀られました。
その銅戈の神宝化はこの地に残り 穂高神社では「犀角」として伝承されました。
またこれはまったくの予想でしかありませんが川会神社にも神宝として「銅戈」が伝わっていたのではないかと思いますが、川会神社は氾濫のため流されてしまいましたので神宝もその段階でなくなってしまいました。
田沢神明宮の銅戈はその後、武田軍に攻め込まれた際に紛失したか、海ノ口神社にまで逃げ延びたかします。
今回は割愛させていただきましたが、仁科濫觴記には諏訪眷属による白馬開発が描かれていますので、ひょとすると白馬開発する中で諏訪眷属にも銅戈を渡され、それが「海ノ口神社」の銅戈として伝来したかもしれません。
その後、九頭子は開発を小川村、戸隠、中野と広げて、最後に柳沢遺跡の銅戈として埋設されたのではないかとも想像します。これはあまりにもこじつけですので全く信じてはいないのですが、僕の予測では今後、小川村や戸隠地区あるいは須坂もしくは中野市あたりからも1本また1本と単数の銅戈が発掘もしくは神社から出てくるのではないかと予測しています。
その時に、この説が実証されたと思ってください。
柳沢遺跡の銅戈8本の内1本は九州型ですが、これは九頭家の家宝であったのではないかと考えています。九州型の一本は九頭家に大切に200年〜400年ものあいだ伝授されてきて、新造された10本ほどの大阪湾型銅戈と一緒にしておくことで、その神気を新しい銅戈に移していたのではないかと僕は考えているのです。
これらを携えて信濃の地のまだ開墾されていない山間部や難河川部の開発をしては、この地に銅戈を残したのではないかと考えているのです。
これが銅戈、「犀の角」に関しての僕の考えるストーリーです。
さて3年目の検索はこれにておしまいです。
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2022年06月08日
検索 犀の角をもとめて 3<泉小太郎伝説の実際(104)>
仁科濫觴記の中では、「九頭子(クズコ)」が河川大臣に任じられ、その河川大臣に白水郎(あま)という治水の技術集団の長として「日光(ひかる)」(泉小太郎のこと)が任じられ見事治水を成功させた物語が描かれています。
仁品王という崇神天皇の末っ子が技能集団を引き連れて開発に赴くという物語が仁科濫觴記でしたが、ようやく実態ある姿を見せてきました。こうして、さまざまな事象がより具体的な証拠としてつながってくると、ますます仁科濫觴記にある古代の記述が、史実だったのではないかと感じざるを得ません。
ちなみにこの安曇野で人気の歴史テーマ「安曇族の安曇野への移動」の数ある説の中で、「磐井の乱」という日本書紀にも語られる古代の大戦乱と結びつけた説があります。
「磐井の乱」で敗れた安曇部族の逃避行の先として安曇野へ移動したという説です。
この説は、「坂本博氏」が著書である「信濃安曇族の謎を追う」のなかで展開しているのです。
その説のなかで磐井の乱の中で朝廷に命乞いをして生き延びた人物の名が「葛子(くずこ)」といいます。まさに「九頭子(くずこ)」と同名です。そして、その「葛子(くずこ)」が朝廷に差し出した土地こそが、九州型銅戈出土の本拠地である「糟屋」となっており、これも偶然だとは思えません。
時代背景さえ合致すれば、この仁科濫觴記は安曇族流入の物語のサイドストーリーを語った史実に近い話だと言えます。
ただし、磐井の乱は527年とされていますから垂仁天皇期とされる仁品王の時代とは大きく違ってはいるのですが。
仁品王が創作で崇神ー垂仁年間でなく磐井の乱後、陳謝のために天皇家に使役された「九頭子」がきたとしてもいいのかもしれません。
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仁品王という崇神天皇の末っ子が技能集団を引き連れて開発に赴くという物語が仁科濫觴記でしたが、ようやく実態ある姿を見せてきました。こうして、さまざまな事象がより具体的な証拠としてつながってくると、ますます仁科濫觴記にある古代の記述が、史実だったのではないかと感じざるを得ません。
ちなみにこの安曇野で人気の歴史テーマ「安曇族の安曇野への移動」の数ある説の中で、「磐井の乱」という日本書紀にも語られる古代の大戦乱と結びつけた説があります。
「磐井の乱」で敗れた安曇部族の逃避行の先として安曇野へ移動したという説です。
この説は、「坂本博氏」が著書である「信濃安曇族の謎を追う」のなかで展開しているのです。
その説のなかで磐井の乱の中で朝廷に命乞いをして生き延びた人物の名が「葛子(くずこ)」といいます。まさに「九頭子(くずこ)」と同名です。そして、その「葛子(くずこ)」が朝廷に差し出した土地こそが、九州型銅戈出土の本拠地である「糟屋」となっており、これも偶然だとは思えません。
時代背景さえ合致すれば、この仁科濫觴記は安曇族流入の物語のサイドストーリーを語った史実に近い話だと言えます。
ただし、磐井の乱は527年とされていますから垂仁天皇期とされる仁品王の時代とは大きく違ってはいるのですが。
仁品王が創作で崇神ー垂仁年間でなく磐井の乱後、陳謝のために天皇家に使役された「九頭子」がきたとしてもいいのかもしれません。
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2022年06月05日
検索 犀の角をもとめて 2<泉小太郎伝説の実際(103)>
銅戈のこの長野県への持ち込みは、仁科濫觴記に記載されている開発団体の一団の中のある特定の人物が持ち込んだものである可能性が高く、僕の考えでは、泉小太郎伝説で語られる白龍王もしくは犀龍のもととなる人物である「九頭子(クズコ)」さんが持ち込んだものではないかと思っています。
銅戈の産地を見てみましょう。
銅戈出土地一覧
銅戈出土地マップ
日本における2大産地は、北九州と、大阪湾周辺で、先に北九州で生産され時代を経てのちに大阪湾周辺で生産されたとされています。
北九州の銅戈の産地はおそらく日本における銅戈文化の発祥地でBC2世紀頃弥生時代の前中期にあたるもので、この地には「白水」という地名であったり「犀川」などがあります。
これは北九州地方にも「犀信仰」があったと考えて間違いないと僕は思います。
そして、そこから200年後〜400年後あたりのAD200年頃、その勢力は東進し、淡路島周辺の大阪湾あたりで銅戈が生産されます。
その銅戈は「大阪湾型」と呼ばれ、「海の口神社」のものも、中野市の柳沢遺跡で発見された8本の内6本もこの「大阪湾型中細形銅戈」となります。
つまり長野県にこの銅戈を持ち込んだ「人」はこの大阪湾周辺の部族となりますが、グーグルマップで調べるとこの大阪湾型銅戈が大量発見された「灘区桜ヶ丘」にあたる神戸の山の麓には「九頭龍神社」がいくつかあります。
仁科濫觴記にある「九頭子」はこの「九頭龍神社」に関係した一族であると確信していますがいかがでしょうか。
(ちなみに戸隠神社の前身もじつはこの九頭龍神社であったとされています。
戸隠神社は仁科濫觴記で開発記録が残る白馬と、銅戈が発見された中野市を結ぶルート上にある山の神社です。)
そして、この部族はおそらく山間部の河川改修土木工事が得意な部族だと思われ、日本各地にある「九頭龍神社もしくは九頭龍伝説」の場は山間部の河川周辺にあり、おそらく古代の河川改修の跡地で起きた信仰もしくは伝承なのではないかと思います。
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銅戈の産地を見てみましょう。
銅戈出土地一覧
銅戈出土地マップ
日本における2大産地は、北九州と、大阪湾周辺で、先に北九州で生産され時代を経てのちに大阪湾周辺で生産されたとされています。
北九州の銅戈の産地はおそらく日本における銅戈文化の発祥地でBC2世紀頃弥生時代の前中期にあたるもので、この地には「白水」という地名であったり「犀川」などがあります。
これは北九州地方にも「犀信仰」があったと考えて間違いないと僕は思います。
そして、そこから200年後〜400年後あたりのAD200年頃、その勢力は東進し、淡路島周辺の大阪湾あたりで銅戈が生産されます。
その銅戈は「大阪湾型」と呼ばれ、「海の口神社」のものも、中野市の柳沢遺跡で発見された8本の内6本もこの「大阪湾型中細形銅戈」となります。
つまり長野県にこの銅戈を持ち込んだ「人」はこの大阪湾周辺の部族となりますが、グーグルマップで調べるとこの大阪湾型銅戈が大量発見された「灘区桜ヶ丘」にあたる神戸の山の麓には「九頭龍神社」がいくつかあります。
仁科濫觴記にある「九頭子」はこの「九頭龍神社」に関係した一族であると確信していますがいかがでしょうか。
(ちなみに戸隠神社の前身もじつはこの九頭龍神社であったとされています。
戸隠神社は仁科濫觴記で開発記録が残る白馬と、銅戈が発見された中野市を結ぶルート上にある山の神社です。)
そして、この部族はおそらく山間部の河川改修土木工事が得意な部族だと思われ、日本各地にある「九頭龍神社もしくは九頭龍伝説」の場は山間部の河川周辺にあり、おそらく古代の河川改修の跡地で起きた信仰もしくは伝承なのではないかと思います。
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2022年06月04日
検索 犀の角をもとめて 1<泉小太郎伝説の実際(102)>
「犀の角」を探しはじめて3年間。「犀の角」というキーワードにつられて、こんなにも泉小太郎伝説を深掘りすることになろうとは思いもしませんでした。
田沢神明宮の「犀の広鉾」という表現と、海の口神社で発見した「銅戈」により、犀の角は「銅戈」ではなかったかと推論するに至りました。
その後、長野市に転勤することになりましたので、銅戈の発見で一躍有名になった中野市の中野市博物館に家族で行きました。
すでに何度も画像をのせましたが

レプリカの銅戈の金色の輝きに青銅器という概念を覆していただきました。
青銅器という名からは、青サビの古ぼけた印象を受けますが、青銅というものは精製されたときには金色に輝く金属なのです。
非常に美しく、かつ存在感があり、制作するのには高い技術が必要とされます。当時の辺境の地である信濃ではみたこともない「金属」という物質があたえた影響力は多大なものであったに違いありません。現にこの銅戈を模した「石戈」も出土していますので、憧れによる模倣もあったと考えられます。あるいは祭器で使う際に金属を生産できなかった場所では石によって模倣していたとも考えられます。

さて、この銅戈という文化はほかの青銅器にくらべて非常に限定的な広がりしかもたず、つまり、出どころがわりとはっきりしています。
銅戈の出土一覧はこちらのページが完璧ですのでご確認ください
銅戈の出土一覧
銅戈出土地のマップ
ほぼ九州の北部から関西は大阪湾周辺まで。もちろんこれからの発掘により、その範囲は覆されていくかもしれませんが、今のところ長野というのはこの範囲から特異的に別の場所で、他の発掘現場からは飛び地的に離れた場所からの発見となります。
こうなってくると、文化圏の移動というより、ある個人もしくは、ある小さな集団がもってきたとしか考えられません。
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田沢神明宮の「犀の広鉾」という表現と、海の口神社で発見した「銅戈」により、犀の角は「銅戈」ではなかったかと推論するに至りました。
その後、長野市に転勤することになりましたので、銅戈の発見で一躍有名になった中野市の中野市博物館に家族で行きました。
すでに何度も画像をのせましたが

レプリカの銅戈の金色の輝きに青銅器という概念を覆していただきました。
青銅器という名からは、青サビの古ぼけた印象を受けますが、青銅というものは精製されたときには金色に輝く金属なのです。
非常に美しく、かつ存在感があり、制作するのには高い技術が必要とされます。当時の辺境の地である信濃ではみたこともない「金属」という物質があたえた影響力は多大なものであったに違いありません。現にこの銅戈を模した「石戈」も出土していますので、憧れによる模倣もあったと考えられます。あるいは祭器で使う際に金属を生産できなかった場所では石によって模倣していたとも考えられます。

さて、この銅戈という文化はほかの青銅器にくらべて非常に限定的な広がりしかもたず、つまり、出どころがわりとはっきりしています。
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銅戈の出土一覧
銅戈出土地のマップ
ほぼ九州の北部から関西は大阪湾周辺まで。もちろんこれからの発掘により、その範囲は覆されていくかもしれませんが、今のところ長野というのはこの範囲から特異的に別の場所で、他の発掘現場からは飛び地的に離れた場所からの発見となります。
こうなってくると、文化圏の移動というより、ある個人もしくは、ある小さな集団がもってきたとしか考えられません。
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2022年06月02日
検索 ふたたび穂高神社 4<泉小太郎伝説の実際(101)>
鍬、機道具、布とともにあったおかげで、この穂高神社の草創期が弥生時代後期もしくは古墳時代において成されたとも考えられ、その中に犀角があることが、この時代に確かに「犀信仰」があったことが証明されたと言ってもいいと僕は考えます。
三年前に、穂高神社の犀の銅像をみて、犀の角を探しあるきました。

田沢神明宮で、「犀の広鉾」という表記により、青銅器ではないかとおもいあたり、海ノ口神社で銅戈を発見して「犀の角」は銅戈であるという新説にいきあたって、まわりまわってのスタート地点で発見された「犀角」
はっきり言って、3年前にこれを発見したところで何も感じなかったと思うのですが、3年間、探しに探したからこそ、これが銅戈を模したものである可能性を痛感し、つまりは弥生時代もしくは古墳時代を今に伝えた神宝であることが発見できたのだと思います。
この発見自体は、まだ誰も提唱していないはずで、僕としてはこの発見のために延々と犀に導かれたのではないかとすら思うのです。
「鉄の鍬」「機の道具」そして「犀角」 古代の神宝。言い換えると
「鉄の鍬」「機の道具」そして「銅戈」
「衣」「食」「住」ではなく「衣」「食」「信」ですね。
この地に伝わる確かな古代の開発時代の遺品です。
ただ、今回穂高神社に訪れて、一つの心配があります。
おそらくは、「穂高神社史」にもあったように、この「犀角」がなぜ伝わっているかについて、由緒にも伝承にもなにも残っていないため、「犀角」を神宝から外し、鋤、鍬だけが神宝とされていたり(穂高神社略記より)、泉小太郎像が隅に追いやられたり(気のせい? 前はもっと違う場所にあった気がします)している気がします。
犀角は鉄の鋤と、機とともにあるから、意味があり、さらに鉄の鋤、機も犀の角とともにあるから、この穂高神社の縁起が、古代は弥生(ローカルの弥生時代)もしくは古墳時代の太古からの地続きだと伝承されうるのです。
これは、僕の邪推でしかないかもしれません。でも後世の研究家が何度も、考察できるように、是非ともこの3つは離すことなく、展示室ではなく、できれば本殿に泰安し、信仰しつづけて欲しいと思うのです。
また泉小太郎との関係も、おそらくなんの由緒も残っていないため、フェイドアウト的になっているかもしれませんが、犀角が(銅戈の代替物が)ここにある以上、そして、地理的な関係性により、この地を開発したのは、泉小太郎と保高見熱躬と九頭子であるのは間違いないかと僕は考えます。ぜひ、威信をもって飾っていただければとも思うのです。
保高見熱躬も九頭子も間違いなく、安曇族です。その安曇族が命じて、現地の泉小太郎がこの地を開拓したのです。外来部族と地元部族の融合を表す象徴としても、昨今、合併した安曇野市の中では、象徴的な存在になるとも思うのです。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら
三年前に、穂高神社の犀の銅像をみて、犀の角を探しあるきました。

田沢神明宮で、「犀の広鉾」という表記により、青銅器ではないかとおもいあたり、海ノ口神社で銅戈を発見して「犀の角」は銅戈であるという新説にいきあたって、まわりまわってのスタート地点で発見された「犀角」
はっきり言って、3年前にこれを発見したところで何も感じなかったと思うのですが、3年間、探しに探したからこそ、これが銅戈を模したものである可能性を痛感し、つまりは弥生時代もしくは古墳時代を今に伝えた神宝であることが発見できたのだと思います。
この発見自体は、まだ誰も提唱していないはずで、僕としてはこの発見のために延々と犀に導かれたのではないかとすら思うのです。
「鉄の鍬」「機の道具」そして「犀角」 古代の神宝。言い換えると
「鉄の鍬」「機の道具」そして「銅戈」
「衣」「食」「住」ではなく「衣」「食」「信」ですね。
この地に伝わる確かな古代の開発時代の遺品です。
ただ、今回穂高神社に訪れて、一つの心配があります。
おそらくは、「穂高神社史」にもあったように、この「犀角」がなぜ伝わっているかについて、由緒にも伝承にもなにも残っていないため、「犀角」を神宝から外し、鋤、鍬だけが神宝とされていたり(穂高神社略記より)、泉小太郎像が隅に追いやられたり(気のせい? 前はもっと違う場所にあった気がします)している気がします。
犀角は鉄の鋤と、機とともにあるから、意味があり、さらに鉄の鋤、機も犀の角とともにあるから、この穂高神社の縁起が、古代は弥生(ローカルの弥生時代)もしくは古墳時代の太古からの地続きだと伝承されうるのです。
これは、僕の邪推でしかないかもしれません。でも後世の研究家が何度も、考察できるように、是非ともこの3つは離すことなく、展示室ではなく、できれば本殿に泰安し、信仰しつづけて欲しいと思うのです。
また泉小太郎との関係も、おそらくなんの由緒も残っていないため、フェイドアウト的になっているかもしれませんが、犀角が(銅戈の代替物が)ここにある以上、そして、地理的な関係性により、この地を開発したのは、泉小太郎と保高見熱躬と九頭子であるのは間違いないかと僕は考えます。ぜひ、威信をもって飾っていただければとも思うのです。
保高見熱躬も九頭子も間違いなく、安曇族です。その安曇族が命じて、現地の泉小太郎がこの地を開拓したのです。外来部族と地元部族の融合を表す象徴としても、昨今、合併した安曇野市の中では、象徴的な存在になるとも思うのです。
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