2022年06月11日
泉小太郎を調べまくる 3年目のまとめ<泉小太郎伝説の実際(106)>
1年目に「安曇の古代」という本で仁科濫觴記に出会い、その後田沢神明宮に辿り着きました。
「犀」をキーワードに信玄軍により壊滅した地を巡ることで泉小太郎が使っていた「犀の広鉾」を探しました。
2年目に「犀の広鉾」が青銅器でないかと推測したものの見つからず「信府統記」に出てくる地名、寺社を巡ることで泉小太郎を調べました。
最後に川会神社に辿り着き、その神社が農具川の開発に関係のある神社だと知り農具川をさぐる必要があると感じ2年目を終えました。
そして3年目
「農具川」をたぐりました。
農具川はまさに農業用水路といった感じです。

その中で仁科神明宮も発見し
川会神社も仁科神明宮もこの農具川水系の開発の際に祀られた神社ではないかと推論しました。
仁科神明宮マップ

仁科神明宮の近くを通る水路への取水口近くの農具川

まったくもっての農業用水路です。
このような水路と高瀬川の合流時点にわざわざ「川会」神社を建てたのです。しかも 式内神社に列せられるはるか古代の神社です。
この水路建設記念に水路保持に建てられた神社としか思えません。

田畑を潤します。

農具川の始まり。

はるか北の仁科三湖と言われる水系の木崎湖から取水される農具川

これより北には白馬山系の山々がそびえています。(撮影時曇りだったのが残念です)
木崎湖に辿り着き
木崎湖の西岸を車で一周しようと回っていると、湖の北端にあたるところに神社があるのを発見しました。
海ノ口上諏訪神社とあります。
海ノ口神社

海ノ口神社で銅戈の発見の看板を発見し

銅戈こそが田沢神明宮に伝わる「犀の広鉾」であったのではないかと推論しました。

また別の角度から泉小太郎の開発地域を探りました。
仁科濫觴記にある「満水の時には湖のようになった」という記述から
この地区のハザードマップを見ました。


そして「田沢神明宮縁起」の中の記述から
田沢神明宮のすぐそばの「尾入沢」まで水が逆流したということを踏まえ
標高545mで線を引くと 見事に「田沢神明宮」「穂高神社」がその線上に浮かび、また水害にあい本来の場所がどこかは不明であるものの「川会神社」もそのラインに浮かびあがるのではないかと考えました。

実際にこの地域をみてみると

このような川です。
この写真ですが、勘違いしていただきたくないのですが流れは写真手前から写真奥に向かって流れています。この写真の中央あたりに見える橋がちょうど地図上の矢印にあたる部分で、この橋に向かって流れを集め、山に向かって流れて行くのです。ちょうど前方に見えている山々が糸魚川静岡構造線によってできた断層の山と言っていいでしょう。
安曇野に降った全ての水はここに集まってくるのです。
この地図上の矢印の部分は山清路ほどの景勝ではないものの、実は(つい先ほど気づいたのですが)日本の真ん中を縦断する糸魚川–静岡構造線の真上であり、川の流れ下るはずの北東側は隆起していたはずで、すこし盛り上がっていたのではないかと思います。
実際、この地の両岸に迫り出した山や岸はやや下流に向かって高度を上げているようにも見えます。
仁科濫觴記の記述では、雪解け水が乾く3月末から秋の末までの乾水期に川底の岩を砕き砂を攫い流すという工事スタイルでしたが、この地をみるとその工法が容易に想像できる風景が広がります。

そして泉小太郎の開発地域は、水利の難所であり、過去幾度にもわたって護岸工事をおこなっている「龍門淵」近辺ではないかと推論しました。

この地を訪れた時がちょうど大雨のあとで近くには流木が散乱しており泉小太郎の開発前はそのような木材がダムのように溜まっていたことは容易に推察できる状況でした。

またここは糸魚川静岡構造線の切れ目を川が乗り越えていくという難所であったことも発見し古代においては目立つ場所であったと推論できます。
このあと開発地域で浮かび上がった「穂高神社史」を調べていたところ
この場所に「犀角」というものが伝来していることを知りました。

右から 機(はた)鍬(くわ)犀角とあります。
この「犀角」を金色っぽく黄色に塗っ、銅戈とならべてみるとこうなります。

穂高神社に伝わる「犀角の原型が「銅戈」だとすると、金箔によって金色に模したものであるところや、付け根から胴に向かって掘られた溝や湾曲した造形などは、かすかに原型の面影をとどめていると言えないでしょうか
実際に「御船館」にいくとその神宝が飾られており比較するとこのようになります。

さて、この銅戈という文化はほかの青銅器にくらべて非常に限定的な広がりしかもたず、つまり、出どころがわりとはっきりしています。
銅戈の出土一覧はこちらのページが完璧ですのでご確認ください
銅戈の出土一覧
銅戈出土地のマップ
ほぼ九州の北部から関西は大阪湾周辺まで。もちろんこれからの発掘により、その範囲は覆されていくかもしれませんが、今のところ長野というのはこの範囲から特異的に別の場所で、他の発掘現場からは飛び地的に離れた場所からの発見となります。
この銅戈の発見の特異性から
おそらく個人もしくは小集団がこの地に銅戈をもたらしたのではないかと類推し
仁科濫觴記にある「九頭子」(くずこ)がその主人公であり
おそらくは九州福岡周辺および大阪湾沿岸にある九頭龍神社 あるいは 戸隠をはじめとする各地域にのこる九頭龍伝説のもととなる民族だったのではないかと推察しました。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら
「犀」をキーワードに信玄軍により壊滅した地を巡ることで泉小太郎が使っていた「犀の広鉾」を探しました。
2年目に「犀の広鉾」が青銅器でないかと推測したものの見つからず「信府統記」に出てくる地名、寺社を巡ることで泉小太郎を調べました。
最後に川会神社に辿り着き、その神社が農具川の開発に関係のある神社だと知り農具川をさぐる必要があると感じ2年目を終えました。
そして3年目
「農具川」をたぐりました。
農具川はまさに農業用水路といった感じです。

その中で仁科神明宮も発見し
川会神社も仁科神明宮もこの農具川水系の開発の際に祀られた神社ではないかと推論しました。
仁科神明宮マップ

仁科神明宮の近くを通る水路への取水口近くの農具川

まったくもっての農業用水路です。
このような水路と高瀬川の合流時点にわざわざ「川会」神社を建てたのです。しかも 式内神社に列せられるはるか古代の神社です。
この水路建設記念に水路保持に建てられた神社としか思えません。

田畑を潤します。

農具川の始まり。

はるか北の仁科三湖と言われる水系の木崎湖から取水される農具川

これより北には白馬山系の山々がそびえています。(撮影時曇りだったのが残念です)
木崎湖に辿り着き
木崎湖の西岸を車で一周しようと回っていると、湖の北端にあたるところに神社があるのを発見しました。
海ノ口上諏訪神社とあります。
海ノ口神社

海ノ口神社で銅戈の発見の看板を発見し

銅戈こそが田沢神明宮に伝わる「犀の広鉾」であったのではないかと推論しました。

また別の角度から泉小太郎の開発地域を探りました。
仁科濫觴記にある「満水の時には湖のようになった」という記述から
この地区のハザードマップを見ました。


そして「田沢神明宮縁起」の中の記述から
田沢神明宮のすぐそばの「尾入沢」まで水が逆流したということを踏まえ
標高545mで線を引くと 見事に「田沢神明宮」「穂高神社」がその線上に浮かび、また水害にあい本来の場所がどこかは不明であるものの「川会神社」もそのラインに浮かびあがるのではないかと考えました。

実際にこの地域をみてみると

このような川です。
この写真ですが、勘違いしていただきたくないのですが流れは写真手前から写真奥に向かって流れています。この写真の中央あたりに見える橋がちょうど地図上の矢印にあたる部分で、この橋に向かって流れを集め、山に向かって流れて行くのです。ちょうど前方に見えている山々が糸魚川静岡構造線によってできた断層の山と言っていいでしょう。
安曇野に降った全ての水はここに集まってくるのです。
この地図上の矢印の部分は山清路ほどの景勝ではないものの、実は(つい先ほど気づいたのですが)日本の真ん中を縦断する糸魚川–静岡構造線の真上であり、川の流れ下るはずの北東側は隆起していたはずで、すこし盛り上がっていたのではないかと思います。
実際、この地の両岸に迫り出した山や岸はやや下流に向かって高度を上げているようにも見えます。
仁科濫觴記の記述では、雪解け水が乾く3月末から秋の末までの乾水期に川底の岩を砕き砂を攫い流すという工事スタイルでしたが、この地をみるとその工法が容易に想像できる風景が広がります。

そして泉小太郎の開発地域は、水利の難所であり、過去幾度にもわたって護岸工事をおこなっている「龍門淵」近辺ではないかと推論しました。

この地を訪れた時がちょうど大雨のあとで近くには流木が散乱しており泉小太郎の開発前はそのような木材がダムのように溜まっていたことは容易に推察できる状況でした。

またここは糸魚川静岡構造線の切れ目を川が乗り越えていくという難所であったことも発見し古代においては目立つ場所であったと推論できます。
このあと開発地域で浮かび上がった「穂高神社史」を調べていたところ
この場所に「犀角」というものが伝来していることを知りました。

右から 機(はた)鍬(くわ)犀角とあります。
この「犀角」を金色っぽく黄色に塗っ、銅戈とならべてみるとこうなります。

穂高神社に伝わる「犀角の原型が「銅戈」だとすると、金箔によって金色に模したものであるところや、付け根から胴に向かって掘られた溝や湾曲した造形などは、かすかに原型の面影をとどめていると言えないでしょうか
実際に「御船館」にいくとその神宝が飾られており比較するとこのようになります。

さて、この銅戈という文化はほかの青銅器にくらべて非常に限定的な広がりしかもたず、つまり、出どころがわりとはっきりしています。
銅戈の出土一覧はこちらのページが完璧ですのでご確認ください
銅戈の出土一覧
銅戈出土地のマップ
ほぼ九州の北部から関西は大阪湾周辺まで。もちろんこれからの発掘により、その範囲は覆されていくかもしれませんが、今のところ長野というのはこの範囲から特異的に別の場所で、他の発掘現場からは飛び地的に離れた場所からの発見となります。
この銅戈の発見の特異性から
おそらく個人もしくは小集団がこの地に銅戈をもたらしたのではないかと類推し
仁科濫觴記にある「九頭子」(くずこ)がその主人公であり
おそらくは九州福岡周辺および大阪湾沿岸にある九頭龍神社 あるいは 戸隠をはじめとする各地域にのこる九頭龍伝説のもととなる民族だったのではないかと推察しました。
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タグ :泉小太郎
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Posted by 泉小太郎研究家 at 17:07│Comments(0)
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