2022年04月30日
検索 銅戈(どうか)5<泉小太郎伝説の実際(85)>
田沢神明宮の縁起には「犀の広鉾を突いて魔を払う」という儀式の描写があり
その儀式は、湖水周辺開発に際して氾濫した際に行われた儀式でした。
そこからこの氾濫地域の開発が始まるのですが
開拓の初めに祭祀としてこの「銅戈」をつかったのではないかと考えます。
そして、その開拓が済んだのちに祀った「銅戈」が田沢神明宮に残されて
のち円満寺に納められその地の神宝とされた「犀の広鉾」ではなかったかと思うのです。
こうして考えると「銅戈」はその一つの地区を開拓する際に祭祀として使い
その地の治世権を示すためか、その後、神社のような形に祀られたのではないかと
今回の発見で考えるにいたりました。
その古代の治世風習が特異的に残ったのが「田沢地区」あるいは木崎湖の「海ノ口地区」と言っていいのかもしれません。
古代にはそのような儀式、治世携帯があり、出雲時代(出雲時代という時代があったと言っていいのではないかとも考えています)
に大国の主の命をして「八千戈の神」とされる由縁もこのような治世携帯があったのではないかとも考えます。
しかしのちに青銅器は、古墳時代初期もしくは弥生時代末期にはすべて埋められてしまいます。
この埋められるることになる要因は不明ですが、確実に時代の変化がこの埋められた年代に起きたのではないかと
思います。
あるいは埋められなかった青銅器は、例えば奈良の大仏などの用途に溶かされて使われてしまったかもしれませんが
先ほども言いましたがその風習が特異的に残ったのが「田沢」であり「海ノ口」であった可能性があります。
なぜなら田沢神明宮縁起には、乱世の時代に略奪にあうまではこの地に「犀の広鉾」が祀られていたという
表記がありますので祭器として「犀の広鉾」という存在があったことは間違いないと思います。
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その儀式は、湖水周辺開発に際して氾濫した際に行われた儀式でした。
そこからこの氾濫地域の開発が始まるのですが
開拓の初めに祭祀としてこの「銅戈」をつかったのではないかと考えます。
そして、その開拓が済んだのちに祀った「銅戈」が田沢神明宮に残されて
のち円満寺に納められその地の神宝とされた「犀の広鉾」ではなかったかと思うのです。
こうして考えると「銅戈」はその一つの地区を開拓する際に祭祀として使い
その地の治世権を示すためか、その後、神社のような形に祀られたのではないかと
今回の発見で考えるにいたりました。
その古代の治世風習が特異的に残ったのが「田沢地区」あるいは木崎湖の「海ノ口地区」と言っていいのかもしれません。
古代にはそのような儀式、治世携帯があり、出雲時代(出雲時代という時代があったと言っていいのではないかとも考えています)
に大国の主の命をして「八千戈の神」とされる由縁もこのような治世携帯があったのではないかとも考えます。
しかしのちに青銅器は、古墳時代初期もしくは弥生時代末期にはすべて埋められてしまいます。
この埋められるることになる要因は不明ですが、確実に時代の変化がこの埋められた年代に起きたのではないかと
思います。
あるいは埋められなかった青銅器は、例えば奈良の大仏などの用途に溶かされて使われてしまったかもしれませんが
先ほども言いましたがその風習が特異的に残ったのが「田沢」であり「海ノ口」であった可能性があります。
なぜなら田沢神明宮縁起には、乱世の時代に略奪にあうまではこの地に「犀の広鉾」が祀られていたという
表記がありますので祭器として「犀の広鉾」という存在があったことは間違いないと思います。
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2022年04月29日
穂高神社 式年遷宮はじまる
泉小太郎伝説の実際をお読みのみなさまはいつもと違うブログです。
穂高神社 式年遷宮はじまりました。
信濃毎日新聞で限定お守りの中に泉小太郎がモチーフのものを見つけていてもたってもいられず穂高神社までむかいました。
さっそくお参りを済ませて遷宮守を手に入れました。


泉小太郎もののグッズがほぼないなかで貴重な一品となります。
しかもモチーフがすばらしく泉小太郎の装束が古事記等の時代を彷彿とさせる神々の衣装
そうです。こちらのほうが僕にはしっくりきます。
泉小太郎という名に少年感が出てしまいますが
新撰仁科記によれば「泉小太郎」は 「白水郎日光」(あまのひかる)が変化したもので泉小太郎そのものは
族長クラスの大人です。
ですのでお守りのようなスタイルが正しいのではないかと思います。
さてずっと書いている泉小太郎伝説の実際も実は穂高神社の式年遷宮までに間に合えばなどと
おもっていたものの間に合いませんでした。
最後の方に穂高神社創立の謎などを解き明かそうと思っていますので
間に合いませんでしたがお楽しみにしていただければ幸いです。
穂高神社には他にも雄大な泉小太郎人形も奉納されていましたので
そちらもぜひ訪れてみてください

今日は大雨でしたのでビニールがかかっていて残念でした。
すみません画像が横向きですがどのように補正したらいいかわかりませんでした。
穂高神社 式年遷宮はじまりました。
信濃毎日新聞で限定お守りの中に泉小太郎がモチーフのものを見つけていてもたってもいられず穂高神社までむかいました。
さっそくお参りを済ませて遷宮守を手に入れました。


泉小太郎もののグッズがほぼないなかで貴重な一品となります。
しかもモチーフがすばらしく泉小太郎の装束が古事記等の時代を彷彿とさせる神々の衣装
そうです。こちらのほうが僕にはしっくりきます。
泉小太郎という名に少年感が出てしまいますが
新撰仁科記によれば「泉小太郎」は 「白水郎日光」(あまのひかる)が変化したもので泉小太郎そのものは
族長クラスの大人です。
ですのでお守りのようなスタイルが正しいのではないかと思います。
さてずっと書いている泉小太郎伝説の実際も実は穂高神社の式年遷宮までに間に合えばなどと
おもっていたものの間に合いませんでした。
最後の方に穂高神社創立の謎などを解き明かそうと思っていますので
間に合いませんでしたがお楽しみにしていただければ幸いです。
穂高神社には他にも雄大な泉小太郎人形も奉納されていましたので
そちらもぜひ訪れてみてください

今日は大雨でしたのでビニールがかかっていて残念でした。
すみません画像が横向きですがどのように補正したらいいかわかりませんでした。
2022年04月25日
検索 銅戈(どうか)4<泉小太郎伝説の実際(84)>
青銅の「金色に輝き重量感がある硬い金属」は古代においてどんな感じで目にうつったことでしょう。
僕だったら欲しいと思ったに違いありません。
そう思い息子と夏休みの実験で青銅器をつくってみることにしました。


結果は大失敗でした。
ネットで探り、近代的な知識をもってしても、融解温度1000℃の達成は困難で、スズと銅の合金である青銅の塊をつくるのがやっとでした。
このように古代に、この地方では絶対作れない美しいものを持ち込んできたら、ひょっとすると村一つくらいは買えたのでは?と思ったり、その神々しさに信仰が芽生えてもおかしくないと思うのです。実際、この銅戈が作れなくて石戈というレプリカを作り信仰した形跡も発見されています。
弥生時代、まだこの地方では土器をつくるのがやっとの世界です。
青銅器は僕らがおもうよりよっぽど美しく、魅力に感じる金属なのだと中野市博物館に銅戈の研究に行って知りました。
さてこの銅戈(どうか)、銅矛(どうほこ)を調べる中で、出雲大社で有名な大国主に突き当たりました。
ウィキペディアより
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。
国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神
『古事記』上巻、及び『日本書紀』神代紀(下)に拠れば、スクナビコナらと共に「大国主神が行った国作りとは、人々に農業や医術を教え、生活や社会を作ること」であったとされる。荒ぶる八十神を平定して日本の国土経営の礎を築いた。
つまり、この国を拓き、農業を伝播し、この日本の礎をつくった神です。
そして、日本の神の辞典として知られる「諸祭神名辞典」には大国主のことを別名で、「八千戈の神」(やちほこのかみ)ともいうとあります。つまり大国主はたくさんの「銅戈」をもった神というのです。(ただし「戈」と書き「ほこ」と読みます)
国を拓き、農業を伝播した神は銅戈を沢山持っていたというのです。
「八千戈の神」という表現は、通常の説では、多く武器(つまり軍隊)をもった出雲軍の存在を示唆したものであるという説明がされているのですが 「戈」は、日本では武器使用の実態がないはずで(輸入当時から祭祀用としての制作)で、「八千戈」(やちほこ)の神とはたくさんの領土をもった神という意味なのではないかと考えることもできるのではないかと思います。
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僕だったら欲しいと思ったに違いありません。
そう思い息子と夏休みの実験で青銅器をつくってみることにしました。


結果は大失敗でした。
ネットで探り、近代的な知識をもってしても、融解温度1000℃の達成は困難で、スズと銅の合金である青銅の塊をつくるのがやっとでした。
このように古代に、この地方では絶対作れない美しいものを持ち込んできたら、ひょっとすると村一つくらいは買えたのでは?と思ったり、その神々しさに信仰が芽生えてもおかしくないと思うのです。実際、この銅戈が作れなくて石戈というレプリカを作り信仰した形跡も発見されています。
弥生時代、まだこの地方では土器をつくるのがやっとの世界です。
青銅器は僕らがおもうよりよっぽど美しく、魅力に感じる金属なのだと中野市博物館に銅戈の研究に行って知りました。
さてこの銅戈(どうか)、銅矛(どうほこ)を調べる中で、出雲大社で有名な大国主に突き当たりました。
ウィキペディアより
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。
国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神
『古事記』上巻、及び『日本書紀』神代紀(下)に拠れば、スクナビコナらと共に「大国主神が行った国作りとは、人々に農業や医術を教え、生活や社会を作ること」であったとされる。荒ぶる八十神を平定して日本の国土経営の礎を築いた。
つまり、この国を拓き、農業を伝播し、この日本の礎をつくった神です。
そして、日本の神の辞典として知られる「諸祭神名辞典」には大国主のことを別名で、「八千戈の神」(やちほこのかみ)ともいうとあります。つまり大国主はたくさんの「銅戈」をもった神というのです。(ただし「戈」と書き「ほこ」と読みます)
国を拓き、農業を伝播した神は銅戈を沢山持っていたというのです。
「八千戈の神」という表現は、通常の説では、多く武器(つまり軍隊)をもった出雲軍の存在を示唆したものであるという説明がされているのですが 「戈」は、日本では武器使用の実態がないはずで(輸入当時から祭祀用としての制作)で、「八千戈」(やちほこ)の神とはたくさんの領土をもった神という意味なのではないかと考えることもできるのではないかと思います。
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2022年04月24日
検索 銅戈(どうか)3<泉小太郎伝説の実際(83)>
銅戈のことを調べると同じ長野県の中野市の柳沢遺跡で大量の銅戈が発掘されたという記事を知り、早速中野市博物館に行きました。
小高い丘の頂上の見晴らしの良い場所にある博物館です。
そこには実際発掘された銅戈や銅鐸のほか、レプリカとして作られた新品の銅戈がありました。そのレプリカは金色に輝いていました。

青銅器というと緑っぽいものか茶色っぽいものをイメージしますが、実際は輝くほどの金色です。人間が初めて製造して流通させた金属は、この金色に輝く青銅器でした。この金色に輝く青銅器を見るだけでも中野市立博物館に赴く価値があります。僕の古代に関する価値観を大きく変えてくれました。
古代の勾玉(まがたま)などを宝物としていたころに、この「金色に輝き重量感がある硬い金属」はどんな感じで目にうつったことでしょう。
僕だったら欲しいと思ったに違いありません。
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小高い丘の頂上の見晴らしの良い場所にある博物館です。
そこには実際発掘された銅戈や銅鐸のほか、レプリカとして作られた新品の銅戈がありました。そのレプリカは金色に輝いていました。

青銅器というと緑っぽいものか茶色っぽいものをイメージしますが、実際は輝くほどの金色です。人間が初めて製造して流通させた金属は、この金色に輝く青銅器でした。この金色に輝く青銅器を見るだけでも中野市立博物館に赴く価値があります。僕の古代に関する価値観を大きく変えてくれました。
古代の勾玉(まがたま)などを宝物としていたころに、この「金色に輝き重量感がある硬い金属」はどんな感じで目にうつったことでしょう。
僕だったら欲しいと思ったに違いありません。
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2022年04月23日
検索 銅戈(どうか)2<泉小太郎伝説の実際(82)>

もともとは中国大陸で武器として使われていて、日本に入る頃には、すでに祭祀用の用途しかなかったと思われます。
最初、石であったと思っていた犀の角でしたが、「犀の広鉾(ひろほこ)」という田沢神明宮の表記と、「犀信仰」と「青銅器」の関連を知るにあたり、犀の角は 青銅器の矛(ほこ)だとおもっていました。
しかし、海ノ口上諏訪神社(うみのくちかみすわじんじゃ)を発見し、「銅戈」を知ってからは、より「犀の角」に近いのは「銅矛」よりこの「銅戈」(どうか)ではないかと思うのです。
日本としては、武器として実用された経緯はありませんし、おそらく中世において「戈」(か)という道具を知っている人はこの地方にはいなかったと思われますので、「ほこ」とされても仕方がありません。実際、この「戈」と、「矛」は同一視される傾向があります。
銅矛の例 (東京国立博物館より)

銅戈の例(中野市柳沢遺跡出土)

銅戈(どうか)のほうが、「犀の角」にみえませんか
先に尖った形状と、多少斜めになる角度。
一度知ってしまうと「犀の角」にしか見えなくなってきます。
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2022年04月22日
検索 銅戈(どうか)1<泉小太郎伝説の実際(81)>
銅戈とは
銅戈は青銅で作られた戈である。 元来は戦車などでの戦闘で適した形状として発達した武器であるが、日本や朝鮮半島では刃部のみが大型化した形態として発掘される。日本における銅戈はその形状や使用痕が殆んどないことから、戦闘用ではなく祭礼用であろうと推測される。 ウィキペディアより

これが銅戈です
僕はこれが犀の角だったのではないかと考えるのです。
いろいろ考察しはじめるまえに
犀の角に関してのいままでの経緯を述べます。
穂高神社で泉小太郎像をみて

「犀」という言葉を不思議に感じていました。
「犀」とは古代の土木器具ではなかったかと推察しそれに相当するような巨石を探しました。
その中で田沢神明宮の岩舟をみつけ、その舳先が削られていることから
「犀」のへさき つまり「犀の角」がどこかに盗まれたのではないかと
岩舟にある伝承を追いかけました。


しかしその検索のなかで「犀の角」がこの岩舟とは違うと思い当たり
田沢神明宮に残る縁起を読み解くと
「泉小太郎は犀の広矛をもって鱗魔を討ちたまい」とあり
犀の広矛が道具であったこと、手に持てる程度のものだったことが書かれていました。
そして広矛を調べたところ
青銅器の広矛が検索され「犀の広矛」とは青銅器であると考えて青銅器を探しました。

田沢神明宮縁起では
「犀の矛を鎮めて神明の御社の前面に犀の神を勧請した」とあり
天文時代の乱世に武田軍に攻められるまでこの地に祀られていたと書かれています。
その後、この犀の矛は行方不明になるのですが、仏崎観音寺を発見して、信府統記の「仏崎の岩穴に隠れる」などの伝承が御神体遷移の伝承化したものかもしれないと推測し「信府統記」の関係地を探りました。
その検索の中で発見したのがこの銅戈です。

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銅戈は青銅で作られた戈である。 元来は戦車などでの戦闘で適した形状として発達した武器であるが、日本や朝鮮半島では刃部のみが大型化した形態として発掘される。日本における銅戈はその形状や使用痕が殆んどないことから、戦闘用ではなく祭礼用であろうと推測される。 ウィキペディアより

これが銅戈です
僕はこれが犀の角だったのではないかと考えるのです。
いろいろ考察しはじめるまえに
犀の角に関してのいままでの経緯を述べます。
穂高神社で泉小太郎像をみて

「犀」という言葉を不思議に感じていました。
「犀」とは古代の土木器具ではなかったかと推察しそれに相当するような巨石を探しました。
その中で田沢神明宮の岩舟をみつけ、その舳先が削られていることから
「犀」のへさき つまり「犀の角」がどこかに盗まれたのではないかと
岩舟にある伝承を追いかけました。


しかしその検索のなかで「犀の角」がこの岩舟とは違うと思い当たり
田沢神明宮に残る縁起を読み解くと
「泉小太郎は犀の広矛をもって鱗魔を討ちたまい」とあり
犀の広矛が道具であったこと、手に持てる程度のものだったことが書かれていました。
そして広矛を調べたところ
青銅器の広矛が検索され「犀の広矛」とは青銅器であると考えて青銅器を探しました。

田沢神明宮縁起では
「犀の矛を鎮めて神明の御社の前面に犀の神を勧請した」とあり
天文時代の乱世に武田軍に攻められるまでこの地に祀られていたと書かれています。
その後、この犀の矛は行方不明になるのですが、仏崎観音寺を発見して、信府統記の「仏崎の岩穴に隠れる」などの伝承が御神体遷移の伝承化したものかもしれないと推測し「信府統記」の関係地を探りました。
その検索の中で発見したのがこの銅戈です。

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2022年04月21日
検索 海ノ口神社<泉小太郎伝説の実際(80)>
木崎湖の西岸を車で一周しようと回っていると、湖の北端にあたるところに神社があるのを発見しました。
海ノ口上諏訪神社とあります。
海ノ口神社

石が、無秩序に並べられた石畳?が原初的な雰囲気を醸し出しています。人里離れた場所にあるにもかかわらず威風堂々とした雰囲気もあります。
お参りをして帰ろうとしたところ、脇に衝撃的な看板があるのを発見します。

この看板を読むと
銅戈(どうか)という青銅器がこの神社で発見されたというのです。
「銅戈?」(どうか?)
さらに看板にはこんな記述もあります。
「当地で製作されたものではなく、いずこかの地で作られたものが、いつしかこの地に伝来し、この神社の神宝として伝えられるようになったと考えられます」
この看板の意味としては制作地はこの地ではなく別の場所であるという意味だけだったと今では思います。
しかし、この看板を一番最初に読んだ時、僕は「これこそが犀の角」で「武田軍の侵攻によるご神体の遷移によってこの地に運ばれてきた」ことと一致すると勘違いしました。
これが勘違いかどうかはこの後検証していきますが
この発見により銅戈についての検索が始まります。
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海ノ口上諏訪神社とあります。
海ノ口神社

石が、無秩序に並べられた石畳?が原初的な雰囲気を醸し出しています。人里離れた場所にあるにもかかわらず威風堂々とした雰囲気もあります。
お参りをして帰ろうとしたところ、脇に衝撃的な看板があるのを発見します。

この看板を読むと
銅戈(どうか)という青銅器がこの神社で発見されたというのです。
「銅戈?」(どうか?)
さらに看板にはこんな記述もあります。
「当地で製作されたものではなく、いずこかの地で作られたものが、いつしかこの地に伝来し、この神社の神宝として伝えられるようになったと考えられます」
この看板の意味としては制作地はこの地ではなく別の場所であるという意味だけだったと今では思います。
しかし、この看板を一番最初に読んだ時、僕は「これこそが犀の角」で「武田軍の侵攻によるご神体の遷移によってこの地に運ばれてきた」ことと一致すると勘違いしました。
これが勘違いかどうかはこの後検証していきますが
この発見により銅戈についての検索が始まります。
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2022年04月20日
検索 仁科神社<泉小太郎伝説の実際(79)>
農具川をたどり木崎湖につき そのほとりで仁科神社を見つけました。

この仁科神社は森城とよばれ仁科氏の居城後に建っており
由来の説明がありました。

この森城の名の由来などは「仁科濫觴記」でも触れられており
さらにはこの一帯以北の白馬の開発物語も仁科濫觴記に触れられており
初めて来る場所でしたが親近感が湧きました。
農具川が仁品王の開発の主体だったのではないかと述べましたが
農具川を辿った先が仁科濫觴記にも描かれる白馬の地であったことで
よりその実感を増しました。
ただ看板を読んでみるとここにも武田の勢力が伸びており
看板には、この地が「仁科盛信」によっておさめられたとあります。
仁科盛信とは
海野氏(うんのし)として、武田信玄の次男の信親(のぶちか)が竜宝(りゅうほう)と名乗って「家に入った」のと同じように
武田の五男が「仁科盛信(にしなもりのぶ)」と名乗りこの地を治めた(乗っ取った?)のです。
歴史を知っているものとしては「この地を滅ぼした側の人」への違和感を感じずにはいられません。
長野県の中で、武田が持ち上げられて語られる場面によく出くわしますが
なんだかいつも違和感を感じます。
(この地を壊滅させた軍です)
ちなみに長野県独特の県歌の「信濃の国」にうたわれる仁科五郎とは、この武田五男です。
「この地を壊滅させた一族なのに、県歌で歌われるのか」これもこの後、武田家が徳川にフューチャーされ、明治には貴族入りしてしまったことによるものだと思われます。
ここが、武田軍が築いた城だとすれば、この地にひょっとしたら犀の角が持ち込まれて祀られているかもしれないと探しましたが、それらしいものを見つけることができませんでした。
ただ、このあたりには鬼穴古墳や下畑遺跡があるということでしたから、なにかしら泉小太郎の足跡があるかもしれないと思い、あたりを散策し、車で木崎湖を一周してみることにしました。そこで運命の発見をするのです。
次の発見こそが、この「泉小太郎伝説をしらべまくる」にとっての最大の発見の糸口となってきます。
いよいよこの発見に辿り着きました。
このあと是非ともお楽しみください。
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この仁科神社は森城とよばれ仁科氏の居城後に建っており
由来の説明がありました。

この森城の名の由来などは「仁科濫觴記」でも触れられており
さらにはこの一帯以北の白馬の開発物語も仁科濫觴記に触れられており
初めて来る場所でしたが親近感が湧きました。
農具川が仁品王の開発の主体だったのではないかと述べましたが
農具川を辿った先が仁科濫觴記にも描かれる白馬の地であったことで
よりその実感を増しました。
ただ看板を読んでみるとここにも武田の勢力が伸びており
看板には、この地が「仁科盛信」によっておさめられたとあります。
仁科盛信とは
海野氏(うんのし)として、武田信玄の次男の信親(のぶちか)が竜宝(りゅうほう)と名乗って「家に入った」のと同じように
武田の五男が「仁科盛信(にしなもりのぶ)」と名乗りこの地を治めた(乗っ取った?)のです。
歴史を知っているものとしては「この地を滅ぼした側の人」への違和感を感じずにはいられません。
長野県の中で、武田が持ち上げられて語られる場面によく出くわしますが
なんだかいつも違和感を感じます。
(この地を壊滅させた軍です)
ちなみに長野県独特の県歌の「信濃の国」にうたわれる仁科五郎とは、この武田五男です。
「この地を壊滅させた一族なのに、県歌で歌われるのか」これもこの後、武田家が徳川にフューチャーされ、明治には貴族入りしてしまったことによるものだと思われます。
ここが、武田軍が築いた城だとすれば、この地にひょっとしたら犀の角が持ち込まれて祀られているかもしれないと探しましたが、それらしいものを見つけることができませんでした。
ただ、このあたりには鬼穴古墳や下畑遺跡があるということでしたから、なにかしら泉小太郎の足跡があるかもしれないと思い、あたりを散策し、車で木崎湖を一周してみることにしました。そこで運命の発見をするのです。
次の発見こそが、この「泉小太郎伝説をしらべまくる」にとっての最大の発見の糸口となってきます。
いよいよこの発見に辿り着きました。
このあと是非ともお楽しみください。
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2022年04月19日
検索 農具川4<泉小太郎伝説の実際(78)>
農具川を車でたどりました。
川会神社付近の農業用水路としての農具川

仁科神明宮の近くを通る水路への取水口近くの農具川

まったくもっての農業用水路です。
このような水路と高瀬川の合流時点にわざわざ「川会」神社を建てたのです。しかも 式内神社に列せられるはるか古代の神社です。
この水路建設記念に水路保持に建てられた神社としか思えません。

田畑を潤します。

農具川の始まり。

はるか北の仁科三湖と言われる水系の木崎湖から取水される農具川
これより北には白馬山系の山々がそびえています。(撮影時曇りだったのが残念です)
木崎湖まで辿り、農具川が確実に古代の農業用水路であったことを実感しました。
すると、すぐそばに仁科神社を発見しました
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川会神社付近の農業用水路としての農具川

仁科神明宮の近くを通る水路への取水口近くの農具川

まったくもっての農業用水路です。
このような水路と高瀬川の合流時点にわざわざ「川会」神社を建てたのです。しかも 式内神社に列せられるはるか古代の神社です。
この水路建設記念に水路保持に建てられた神社としか思えません。

田畑を潤します。

農具川の始まり。

はるか北の仁科三湖と言われる水系の木崎湖から取水される農具川

木崎湖まで辿り、農具川が確実に古代の農業用水路であったことを実感しました。
すると、すぐそばに仁科神社を発見しました
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2022年04月18日
検索 農具川3<泉小太郎伝説の実際(77)>
農具川の名前の由来は不明ですが、
農具川は明らかに、いつの時代かに開発された人口水路であるのは間違いなく、大町、池田町の東側の山麓にひろがる農地は、この農具川の水系によって切り開かれています。
この水系の人工的な恣意に、古代のロマンを感じずにはいられません。
仁科神明宮近くの水路(はるか北の農具川から取水)

もちろんその後、なんども改修工事は行われて、昔のままであるはずもないですが、おそらく仁品王がここにきて九頭子に命じた治水はこの農具川の治水が最重要なものであったと考えます。
実は仁科濫觴記(にしならんしょうき)には、治水開発の箇所については「山征路」(山清地と比定)付近の開発模様が少し触れられているだけで、実際の治水開発に関しての場所の特定はできません。そのため、後世の伝承では 泉小太郎が切り開いたのははるか下流の山清地付近ということとなり、そのため、農地開拓は山清地のような要衝を切り開き、大きな湖を農地に変えたというイメージになってしまっています。しかし、初期の農地開拓はもっと計画的でコストパフォーマンスの良いものであったと思うのです。
たとえば高低差を意識して、上流域から取水する農具川のような水路の敷設などが開発計画としては真っ当ではないでしょうか。
農具川はどこからなのかと調べてみると、大町の市街の東側をほぼ一直線に(人口的に?)ひかれ
仁科三湖と呼ばれる木崎湖からひかれているというのです。
川会神社に訪れたあと、車で農具川を辿ってみることにしました。
農具川は明らかに、いつの時代かに開発された人口水路であるのは間違いなく、大町、池田町の東側の山麓にひろがる農地は、この農具川の水系によって切り開かれています。
この水系の人工的な恣意に、古代のロマンを感じずにはいられません。
仁科神明宮近くの水路(はるか北の農具川から取水)

もちろんその後、なんども改修工事は行われて、昔のままであるはずもないですが、おそらく仁品王がここにきて九頭子に命じた治水はこの農具川の治水が最重要なものであったと考えます。
実は仁科濫觴記(にしならんしょうき)には、治水開発の箇所については「山征路」(山清地と比定)付近の開発模様が少し触れられているだけで、実際の治水開発に関しての場所の特定はできません。そのため、後世の伝承では 泉小太郎が切り開いたのははるか下流の山清地付近ということとなり、そのため、農地開拓は山清地のような要衝を切り開き、大きな湖を農地に変えたというイメージになってしまっています。しかし、初期の農地開拓はもっと計画的でコストパフォーマンスの良いものであったと思うのです。
たとえば高低差を意識して、上流域から取水する農具川のような水路の敷設などが開発計画としては真っ当ではないでしょうか。
農具川はどこからなのかと調べてみると、大町の市街の東側をほぼ一直線に(人口的に?)ひかれ
仁科三湖と呼ばれる木崎湖からひかれているというのです。
川会神社に訪れたあと、車で農具川を辿ってみることにしました。