2022年03月16日
検索 信玄堤6 <泉小太郎伝説の実際(42)>
信玄堤 深掘りの最後にこの竜王の地にのこる民話を一つ紹介します。
『竜王の膳椀』という民話で、竜王の名前の由来に関係ある「興石の池」に伝わる民話です。
『昔、輿石に池があって、竜神が棲むと数々の伝説があった。竜神は郷中の大だっちょう(人寄せ)の際には、膳椀などを貸してくれ、重宝され信仰されていた。しかし、ある時一人の横着者が、一人前ごまかして返さず、竜神は怒ってもう願いを聞いてくれなくなった。
それにとどまらず、この横着者がぽっくり死に、郷中に不幸がたて続くに至って、郷役人は慈照寺の和尚に竜神に掛け合ってくれるよう頼んだ。難しかろうと言いながらも和尚は重い腰を上げてくれたが、皆が見守る中の輿石の池の対面の末、竜神は池を飛び出し天に昇って去ってしまった。
和尚曰く、やはり首を縦に振らぬ竜神に、和尚は禅問答での結着を了承させ、和尚が勝ったのだが、竜神はよほど悔しかったと見え、池を去ってしまったのだという。郷の衆はえれえことになったとぶつぶつ言いながら解散したが、もう膳椀が貸されることはなかった。』
この民話は全国によくある話だそうで、「異文化の人と接した里の人たちの伝承」の民話として知られています。話を要約すると、竜は大切なものを貸すなどして、その里に尽くしていたが、大切なものを奪われ、どこかに行ってしまった という話になります。
龍はどこかに悔しがって消えてしまった。
名堤「信玄堤」を完成し、メンテナンス方法まで伝授したにも関わらず、竜王河原宿ができるころには消えてしまった 「謎のだれか」を思わずにはいられません。
さて、信玄堤の検索はここで終わります。
この「信玄堤」の文章も書くべきかどうかをひどく迷いました。
それは「信玄堤」を調査する際に多くの記事を参考にさせていただいたのですが、記事を読むたびに地元の人の「自慢のさま」が伝わってきたからです。
僕の発見は、不明とされていた「信玄堤」の発祥の研究の新たなきっかけとなるかもしれません。
ただ、同時に山梨では神とさえされる「信玄公」の功績に泥をぬってしまうかもしれません。
「天文年間」の事実を知ったときは衝撃をうけ今まで抱いていた「武田」のイメージがまるで反転してしまいました。
武田信玄の強さは、じつは濡れ手に粟のように略奪しまくった信州の財力人力によるものだったのかもしれない。
実際、信玄が家督を奪ってからすぐに、信州攻略に向かい、着々と国固めをすすめていきます。
では、その財源は?労働力は? あまり検証されてこなかった事実だと思います。
信玄を悪者にするつもりは毛頭ありません。あの時代、戦国という世にあって彼のとった手法やその時の時代通念からいえば至極まっとうなことを行い、しかも効率よく徹底的に行われており、さすが戦国一とうたわれるほどだとさえ思います。
戦国の世が悪くて、戦乱の世を憎むだけです。
信玄の名言をもう一度出します。
「人は城、人は石垣、人は堀」今回で、捉え方がまったく変わってしまいましたが、この名言には続きがあります。それは、
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
すくなくとも信玄は光の民(海野の民)たちには仇を抱いてはいなかったと思います。
であれば願わくは、僕が検索できなかっただけで、光の民たちには「情け」がかけられ、治水工事が成功したあと、
幸せに余生を暮らしたと思いたいのです。
傍証ならあります。甲州にもある「甲州盆地は湖だった説」
これは甲州各地に散らばり子供を産み、根付いた光の民の伝承ではないでしょうか。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
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『竜王の膳椀』という民話で、竜王の名前の由来に関係ある「興石の池」に伝わる民話です。
『昔、輿石に池があって、竜神が棲むと数々の伝説があった。竜神は郷中の大だっちょう(人寄せ)の際には、膳椀などを貸してくれ、重宝され信仰されていた。しかし、ある時一人の横着者が、一人前ごまかして返さず、竜神は怒ってもう願いを聞いてくれなくなった。
それにとどまらず、この横着者がぽっくり死に、郷中に不幸がたて続くに至って、郷役人は慈照寺の和尚に竜神に掛け合ってくれるよう頼んだ。難しかろうと言いながらも和尚は重い腰を上げてくれたが、皆が見守る中の輿石の池の対面の末、竜神は池を飛び出し天に昇って去ってしまった。
和尚曰く、やはり首を縦に振らぬ竜神に、和尚は禅問答での結着を了承させ、和尚が勝ったのだが、竜神はよほど悔しかったと見え、池を去ってしまったのだという。郷の衆はえれえことになったとぶつぶつ言いながら解散したが、もう膳椀が貸されることはなかった。』
この民話は全国によくある話だそうで、「異文化の人と接した里の人たちの伝承」の民話として知られています。話を要約すると、竜は大切なものを貸すなどして、その里に尽くしていたが、大切なものを奪われ、どこかに行ってしまった という話になります。
龍はどこかに悔しがって消えてしまった。
名堤「信玄堤」を完成し、メンテナンス方法まで伝授したにも関わらず、竜王河原宿ができるころには消えてしまった 「謎のだれか」を思わずにはいられません。
さて、信玄堤の検索はここで終わります。
この「信玄堤」の文章も書くべきかどうかをひどく迷いました。
それは「信玄堤」を調査する際に多くの記事を参考にさせていただいたのですが、記事を読むたびに地元の人の「自慢のさま」が伝わってきたからです。
僕の発見は、不明とされていた「信玄堤」の発祥の研究の新たなきっかけとなるかもしれません。
ただ、同時に山梨では神とさえされる「信玄公」の功績に泥をぬってしまうかもしれません。
「天文年間」の事実を知ったときは衝撃をうけ今まで抱いていた「武田」のイメージがまるで反転してしまいました。
武田信玄の強さは、じつは濡れ手に粟のように略奪しまくった信州の財力人力によるものだったのかもしれない。
実際、信玄が家督を奪ってからすぐに、信州攻略に向かい、着々と国固めをすすめていきます。
では、その財源は?労働力は? あまり検証されてこなかった事実だと思います。
信玄を悪者にするつもりは毛頭ありません。あの時代、戦国という世にあって彼のとった手法やその時の時代通念からいえば至極まっとうなことを行い、しかも効率よく徹底的に行われており、さすが戦国一とうたわれるほどだとさえ思います。
戦国の世が悪くて、戦乱の世を憎むだけです。
信玄の名言をもう一度出します。
「人は城、人は石垣、人は堀」今回で、捉え方がまったく変わってしまいましたが、この名言には続きがあります。それは、
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
すくなくとも信玄は光の民(海野の民)たちには仇を抱いてはいなかったと思います。
であれば願わくは、僕が検索できなかっただけで、光の民たちには「情け」がかけられ、治水工事が成功したあと、
幸せに余生を暮らしたと思いたいのです。
傍証ならあります。甲州にもある「甲州盆地は湖だった説」
これは甲州各地に散らばり子供を産み、根付いた光の民の伝承ではないでしょうか。
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Posted by 泉小太郎研究家 at 18:35│Comments(0)
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