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2022年03月22日

検索 武田軍その後 <泉小太郎伝説の実際(48)>

安曇野および信州の「古代~中世の歴史」は消滅してしまったと言っていいと、今は考えています。

果たして、歴史が消滅することなんてことがあり得るのでしょうか。

今回の探索により、様々な特殊な事情が重なると歴史は見事に消滅してしまうことがわかってきました。
今回は歴史が消える仕組みも時に触れ述べていきたいと思っています。(これからのサブテーマです)

まず、安曇野地方の(信州の)歴史が消えた一番大きな要因は、この地方への武田軍の侵略行為が原因だと思います。

武田軍の記録や、その後のこの地方の状況については
武田信玄研究者が、かなりの人数いますので、図書館等でかなり詳細に知ることができます。

中でも、松本市中央図書館の武田軍に関する書籍は充実しています。
 
犀の角の行方が気になりいろいろ武田軍について調べましたが
その行いがこの地方にもたらした影響はとても悲惨でした。

昨年調べた田沢神明宮の縁起からもわかるように
天文年間に武田軍は幾度となく信州を席捲します。
そして、その時従軍していた「悪徒」(一般兵)が略奪を行い
この地方の宝物をはじめ、歴史として残っていた文書の類も
焼失あるいは紛失してしまっていることは前回述べました。

天文10年に武田軍が、信濃に進軍をはたし、それから天文22年、この地方が壊滅するまで約12年間も毎年来ては、
略奪を続けました。
さらに、どうやら、武田軍はこの信州の地を統治するつもりは全くなかったとみえ、戦闘が終了した後も、
この地は放置されてしまいます。
また天文22年から12年にわたり現在の長野市付近にて
川中島の戦いが始まりますので
それからさらに12年間もこの地は戦場への通り道として
略奪されていたのではないかと考えます(この辺の詳細はいまのところは省略します)

天文22年(1553年)にこの地が壊滅したのち、統治が始まるのが
竜宝が「海野」を名乗ってからと考えると、実にその後8年は放置されていたことになります。
その間にこの地方に起こったこともかなり詳細にわかっています。

戦乱中に、「青田刈り」(その年の収穫をさせないように、イネを刈ってしまう)等もおこなったため
種もみさえ尽き、その後、数年の飢饉(ききん)によりこの地方の人々の多くは死に絶えたというのです。
この飢饉の死者のほうが実際の戦闘の死者よりはるかに多かったのではないのでしょうか。
約20年間におよぶ戦乱と飢饉。この地方の民は離散し、語り継ぐものまでいなくなっていたとしても当然です。

なぜ、武田信玄はこのような策をとったのでしょう。

これには武田信玄が忠実に従っていた「孫子の兵法書」(そんしのへいほうしょ)が関係しています。

「孫子の兵法書」とは
『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。孫武は戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化して、本書で後世に残そうとした。
(ウィキペディアより)

孫子の兵法書は現代でも、ビジネス書等で人気があるため、
書籍やYouTubeなどでもすぐに検索ができますので、興味のある方は見てください。
そして、この孫子の兵法書の信奉者の代表が武田信玄であり、かの有名な「風林火山」も孫子の兵法書からの引用です。

「孫子の兵法書」の研究も少ししましたが、その結論として
この信州の地は「孫子の兵法書」によって壊滅したと言ってもいいと僕は考えています。

孫子の兵法書は優れた戦術書であるのですが、実は、戦闘後の統治については何も書かれていないのです。
勝ち方も、敵国、敵軍をだまし、謀り、略奪等をおこない、その地方の国力を削ぐ。そういう文書なのです。
武田信玄はこの書の信奉者であり、この書に忠実でありました。

孫子の兵法の戦略がこの地にもたらした被害をあげてみます。

① 策略によって、同地域の氏族を分断して戦わせた
 またいつか北信地方、東信地方(信濃の北地域、東地域)の歴史についても書こうと思いますが、武田軍は、調略によって諏訪氏と村上氏をつかって、海野氏を壊滅させ、その後、海野系の真田を引き入れ、次には真田を使い、村上氏を壊滅させるなどの調略を得意としました。
これにより、今でも地域間の憎悪が続いてしまっています。

② 統治を目的とせず、敵の力を削ぐために、略奪を戦略の基本とした。
 乱取りという人狩りをはじめとして執拗に略奪を繰り返したため、この地方はおそらく20年にわたって完全に荒廃しました。
 
これによりこの地方の民は壊滅の状況となりました。

孫子の兵法というのは戦闘の勝利には強力な手法ですが
その後の統治については書かれていないという欠点があることを
もう少し踏まえてもいいと思えるほどの悲惨な状況です。

武田信玄自身に関しても孫子の兵法を頼りにしたばかりに
小競り合いの繰り返しと統治が拡大できなかったことによる
周囲武将との国力の差、民の離散、また、獲得武将への疑心暗鬼を引き起こし
結局戦国時代を勝ち抜くことができなかったと言っていいと私は考えます。

結論としては、孫子の兵法は「軍事バカ」を作り出す書物だと思います。

さて、孫子の兵法の批判をしましたが、(それくらいのことをこの書物は信州に信玄という形でダメージを与えました)さらにこの地方の歴史伝達においての悲劇は続きます。

天文年間の後、だいぶ遅れて武田は信州統治をし始めます。
壊滅させたあと、今までの略奪の限りをつくした地域での統治者となります。
このため、本来であれば残ったであろう
恨みや過去の歴史は封印せざるを得なくなります。伝えたくてもなかなか伝えづらくなってしまうのです。

そのため、「伝承」や「昔話」「民話」として語られるにとどまってしまいます。

田沢神明宮の天文年間の伝承の
「天文の頃、悪徒の用に石工 矢穴を掘りけども破ることあたわず 即時に眼くらみて人の家へ入り死せり」
も苦肉の策で残された命の一文だったと思います。

さらに歴史伝達的な不幸としては
その後、約300年続く徳川政権が
武田信玄をリスペクトしてしまったことにより
この流れがその後300年続いてしまったということです。

江戸時代に編纂された「信府統記」(しんぷとうき)も為政者側の記録となりますので
協力した民たちも、口ごもったに違いありません。

各地の縁起も、ぼかした程度にとどまるのはしょうがないでしょう。
普通、武田軍の残した爪痕はもっと鮮明にこの地に残っていてもいいはずですが
このような歴史的背景により、今、この地で生活している人間もほぼ知らない事実になってしまったと言っていいでしょう。


歴史は、戦争とその後の統治によって完全に消滅しうる。
今回の歴史探求によって知った重要な過去からのメッセージでした。


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Posted by 泉小太郎研究家 at 06:17│Comments(0)泉小太郎伝説の実際
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