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2022年05月18日

検索 泉小太郎の開発地域 1<泉小太郎伝説の実際(89)>

「泉小太郎」こと「あまのひかる」は何処を開発したのか。実はこれが「泉小太郎伝説」をめぐる僕の探索のスタートでした。
「泉小太郎伝説」を知り、その物語が、僕が高校時代に感じた「この地域は湖だったのではないか」という思いとあまりにも内容が酷似していたため、興味を持ち調べ始めたのがきっかけだったと以前にも述べました。

また全く別の視点ですが農学部出身の私としては、この長野県の山間部に切り込んでいく水田や、川の水位のはるか高い場所まで開かれている水田に魅せられていました。

泉小太郎伝説を知る前に、この地の水田がどのように開発されていたのかを推測することがドライブ中の趣味ともなっていたのです。

その頃、特に特徴的だと思った場所が
① 仁科神明宮が鎮座する池田町付近の「農具川水系の高地にある不思議な水田」
② 田沢神明宮付近の「谷間に点在する不思議な水田」
でした。

この二つを知りながら「泉小太郎伝説」と出会い

①の「農具川水系の水田」は「仁科濫觴記」に描かれる「仁品王」が「九頭子」に命じた水田開発
②の「田沢神明宮付近の谷間に点在する水田」は「田沢神明宮縁起」に描かれる「安曇野開発の初め」として
二つとも「泉小太郎伝説」に深く関連する場所であったことがわかるのです。

これらが、泉小太郎こと「ひかるくん」の功績であったかどうかは不明なのですが、仁科濫觴記(にしならんしょうき)にある仁品王の開発計画の中で、河川大臣とされた「九龍子」や「諏訪眷属」あるいは「保高見熱躬」たちによって開発された場所であるのは間違い無いかと感じるのです。
農具川水系の開発は、「仁科神明宮」「川会神社」という形でその意思を今に伝達してきているとも言えますし、「田沢神明宮」はまさに、この地の開発の始めとして遺された意思と言っていいとも感じます。
 
この二つの開発はかなりの実感をともなって間違いないと「感じる」のですが、伝承の中で一つ納得いかない場所がひっかかっているのです。
 
それは、信府統記や数々の泉小太郎伝説に描かれる、泉小太郎と犀龍が切り開いたとする「山清路」です。

泉小太郎伝説の中で、一番のハイライトと言って良いでしょう。堤の壁を犀龍にまたがり突き破るシーンです。
その地が山清路とされ、江戸時代には景勝地として観光客が訪れました。


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Posted by 泉小太郎研究家 at 20:39│Comments(0)泉小太郎伝説の実際
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