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2022年04月17日

泉小太郎を調べまくる 2年目のまとめ<泉小太郎伝説の実際(74)>

1年目の結果(入明寺〜川会神社まで)
田沢神明宮に残る岩舟の伝承を紐解き
この伝承がこの地を壊滅させた武田家の次男で
海野家を継いだ「海野信親」のことの伝承ではないかと説明しました。
田沢神明宮 岩舟


岩舟の先端が切り取られた後を見て
犀の角が切り取られていると思い探しました。


この石がひょっとすると墓石に使われているのではないかと
「海野信親」の墓が残る入明寺に調査に行きました。



実際に墓を見てみると
質感や大きさともに違うことがわかり
再び田沢神明宮の縁起を調べてみると
「泉小太郎は犀の広矛をつかった」という記載があり
青銅の広鉾が伝播したものではないかと推測しました。

銅矛(島根県立古代出雲歴史博物館の展示)

その後、偶然に信府統記に記載のある仏崎観音寺を発見しました。
仏崎観音寺本堂



ここにも武田軍の侵略の歴史を発見し
信府統記の記述の一部は 戦国時代の御神体遷移を示したものではないかと
推測しました。

また信府統記研究者に関してはこの仏崎観音寺が有名であることを知り
信府統記の研究を始めました。

その中で「放光寺」と「川会神社」を探ることに決めました。

「放光寺」に訪ねると
「松本日光」の文字があり、泉小太郎の本名である「日光(ひかる)」から
きたものではないかと推測しました。


その後泉小太郎の祠を近くで見つけて
この地の歴史を検索しました。


すると廃仏毀釈の歴史を発見し
この地が明治時代に「戸田光則」の保身によってこの地の寺社の8割が廃寺となったという
驚愕の事実を発見します。

その中の一つ
若澤寺を訪ね「廃仏毀釈」の強烈な状況を実感します。



「放光寺」の検索を終了後
つぎの「川会神社」の検索に向かい、ここでも武田軍の進軍による壊滅の歴史を発見し
また川の氾濫で何度も神社の場所を移したことを発見しました。



またその由来より
この川会神社は
高瀬川と農具川の会う場所にできたことが判明しました。

農具川というのは農業用水として掘られた人工的な川ではないかと考え
3年目の検索に進むことになりました。



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Posted by 泉小太郎研究家 at 08:59Comments(0)泉小太郎伝説の実際