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2022年04月30日

検索 銅戈(どうか)5<泉小太郎伝説の実際(85)>

田沢神明宮の縁起には「犀の広鉾を突いて魔を払う」という儀式の描写があり
その儀式は、湖水周辺開発に際して氾濫した際に行われた儀式でした。

そこからこの氾濫地域の開発が始まるのですが
開拓の初めに祭祀としてこの「銅戈」をつかったのではないかと考えます。
そして、その開拓が済んだのちに祀った「銅戈」が田沢神明宮に残されて
のち円満寺に納められその地の神宝とされた「犀の広鉾」ではなかったかと思うのです。

こうして考えると「銅戈」はその一つの地区を開拓する際に祭祀として使い
その地の治世権を示すためか、その後、神社のような形に祀られたのではないかと
今回の発見で考えるにいたりました。

その古代の治世風習が特異的に残ったのが「田沢地区」あるいは木崎湖の「海ノ口地区」と言っていいのかもしれません。
古代にはそのような儀式、治世携帯があり、出雲時代(出雲時代という時代があったと言っていいのではないかとも考えています)
に大国の主の命をして「八千戈の神」とされる由縁もこのような治世携帯があったのではないかとも考えます。

しかしのちに青銅器は、古墳時代初期もしくは弥生時代末期にはすべて埋められてしまいます。
この埋められるることになる要因は不明ですが、確実に時代の変化がこの埋められた年代に起きたのではないかと
思います。
あるいは埋められなかった青銅器は、例えば奈良の大仏などの用途に溶かされて使われてしまったかもしれませんが
先ほども言いましたがその風習が特異的に残ったのが「田沢」であり「海ノ口」であった可能性があります。

なぜなら田沢神明宮縁起には、乱世の時代に略奪にあうまではこの地に「犀の広鉾」が祀られていたという
表記がありますので祭器として「犀の広鉾」という存在があったことは間違いないと思います。




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Posted by 泉小太郎研究家 at 17:16Comments(0)泉小太郎伝説の実際