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2022年04月14日

検索 川会神社2<泉小太郎伝説の実際(73)>

川会神社に行くと
そこには泉小太郎伝説の要約と
由来書がありました。


この由来書から再びこの発見物語が大きく変わり始めます。
要約のみ書きます。

景行十二年に草創とあります(田沢神明宮や信府統記とも同年)
高瀬川と木崎湖より出たる農具川の落合に鎮座。
武田信玄によって攻め込まれ、
記録および宝が灰塵と化したとあります。
その後、1780年代に氾濫にあって、現地に再建される


ここでも武田軍によって壊滅し、その後の氾濫で流されてしまっています。
建て直しの際、穂高神社の系統社として建て直されているため、その前の記録というと不明に近い状態となっているといっていいでしょう。

また、仁科濫觴記では建立に関しては、あっさりと「川の会う場所なので川会神社とした」くらいの表記しかありません。おそらく田沢神明宮と同様、川を整備するために建てられ祭祀をおこなっていた神社だと思われます。
 
ところで、この川会神社どことどこの川が会う場所かということですが、それは、高瀬川と農具川(のうぐがわ)です。

 農具川!!次の章で詳しく説明させていただきますが、僕は以前から、この農具川こそが、仁品王、九頭子(河川大臣)、白水郎日光(あまのひかる 泉小太郎)の開発の本丸だと思っていて、池田町の用水路を調べていました。

この川の最終地点が川会神社だったのです。川会神社にきて初めて知った真実です。てっきり川会神社というのは、高瀬川と犀川がぶつかるもっと南の方にあるものと思っていたのですが、農具川といういわば用水路(私の認識は用水路でした)の合流地点に建てられていたのです。ここへきて、私はこの川会神社は、用水路完成記念に、建てられた神社だと確信しました。

3年目の検索は農具川からはじまります。



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Posted by 泉小太郎研究家 at 18:39Comments(0)泉小太郎伝説の実際