2022年04月18日
検索 農具川3<泉小太郎伝説の実際(77)>
農具川の名前の由来は不明ですが、
農具川は明らかに、いつの時代かに開発された人口水路であるのは間違いなく、大町、池田町の東側の山麓にひろがる農地は、この農具川の水系によって切り開かれています。
この水系の人工的な恣意に、古代のロマンを感じずにはいられません。
仁科神明宮近くの水路(はるか北の農具川から取水)

もちろんその後、なんども改修工事は行われて、昔のままであるはずもないですが、おそらく仁品王がここにきて九頭子に命じた治水はこの農具川の治水が最重要なものであったと考えます。
実は仁科濫觴記(にしならんしょうき)には、治水開発の箇所については「山征路」(山清地と比定)付近の開発模様が少し触れられているだけで、実際の治水開発に関しての場所の特定はできません。そのため、後世の伝承では 泉小太郎が切り開いたのははるか下流の山清地付近ということとなり、そのため、農地開拓は山清地のような要衝を切り開き、大きな湖を農地に変えたというイメージになってしまっています。しかし、初期の農地開拓はもっと計画的でコストパフォーマンスの良いものであったと思うのです。
たとえば高低差を意識して、上流域から取水する農具川のような水路の敷設などが開発計画としては真っ当ではないでしょうか。
農具川はどこからなのかと調べてみると、大町の市街の東側をほぼ一直線に(人口的に?)ひかれ
仁科三湖と呼ばれる木崎湖からひかれているというのです。
川会神社に訪れたあと、車で農具川を辿ってみることにしました。
農具川は明らかに、いつの時代かに開発された人口水路であるのは間違いなく、大町、池田町の東側の山麓にひろがる農地は、この農具川の水系によって切り開かれています。
この水系の人工的な恣意に、古代のロマンを感じずにはいられません。
仁科神明宮近くの水路(はるか北の農具川から取水)

もちろんその後、なんども改修工事は行われて、昔のままであるはずもないですが、おそらく仁品王がここにきて九頭子に命じた治水はこの農具川の治水が最重要なものであったと考えます。
実は仁科濫觴記(にしならんしょうき)には、治水開発の箇所については「山征路」(山清地と比定)付近の開発模様が少し触れられているだけで、実際の治水開発に関しての場所の特定はできません。そのため、後世の伝承では 泉小太郎が切り開いたのははるか下流の山清地付近ということとなり、そのため、農地開拓は山清地のような要衝を切り開き、大きな湖を農地に変えたというイメージになってしまっています。しかし、初期の農地開拓はもっと計画的でコストパフォーマンスの良いものであったと思うのです。
たとえば高低差を意識して、上流域から取水する農具川のような水路の敷設などが開発計画としては真っ当ではないでしょうか。
農具川はどこからなのかと調べてみると、大町の市街の東側をほぼ一直線に(人口的に?)ひかれ
仁科三湖と呼ばれる木崎湖からひかれているというのです。
川会神社に訪れたあと、車で農具川を辿ってみることにしました。
2022年04月18日
検索 農具川2<泉小太郎伝説の実際(76)>
池田町の県道を走りながら東の山麓を望むと、高瀬川(農具川も含めて)の水位からずっと高地まで水田が広がっていることが見渡せます。ほぼ山の中腹まで水田が広がっているのですが、車で初めてこの場所を通った時に違和感を感じました。
「どのように水をあの高い位置まであげたのだろう」と不思議に思わずにはいられませんでした。
この高い水田地、どこから水をひいているのだろうとグーグルマップでしらべてみると
水路はずっと北の位置の農具川から取水されていることを発見します。
しかもある高さで山腹をほぼ真っ直ぐ、横一直線に水道が貫いていくのです。
この水路を一度サイクリングか ウォーキングで辿ってみたいという思いもあるのですが
コロナのため、まだ出来ていません。
非常に美しい古道もしくは古水道があるのではと思っています。
(観光資源としてもいいのではないかと思います。)
ある時、山腹にほぼ等高線にそって流れる水路を探るべく
車で辿れるところを何度か辿ってみました。
するとそこで仁科神明宮を発見したのです。
仁科神明宮マップ

以前から国宝仁科神明宮という看板は見ていましたが
その頃は歴史や神社などにも興味はありませんでしたから何気なしにみていました。
しかし農業用水路(どちらかといえば農業のほうに興味がありましたので)を
めぐるなかで農具川の支流である水路沿いに仁科神明宮を発見しました。
仁科神明宮のすぐ近くを流れる農具川水系取水の水路

その後、泉小太郎伝説を探るなかで川会神社に辿り着き
「川会」の川は 高瀬川とこの農業用水路に過ぎない農具川との合流地点という
ことを知った後は にわかに農具川に重大な内容が隠されていると感じられることと
なりました。
ひょっとすると
仁科神明宮も川会神社も 農業用水路の開拓時に創立された可能性があるのではないか。
そして、それはこの地の開発の祈念とともに、川のメンテナンスのために作られた神社では
ないかと考えられるのです。
この農具川の流域こそが
仁科濫觴記に書かれた「仁品王」が「九頭子」に命じた
開発計画の主要な計画ではなかったかとおもわれるのです。
仁品王が館を構え、中心地とした場所と農具川の水系を考えれば
非常にあり得る仮説だと思うのですがいかがでしょうか。

泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら
「どのように水をあの高い位置まであげたのだろう」と不思議に思わずにはいられませんでした。
この高い水田地、どこから水をひいているのだろうとグーグルマップでしらべてみると
水路はずっと北の位置の農具川から取水されていることを発見します。
しかもある高さで山腹をほぼ真っ直ぐ、横一直線に水道が貫いていくのです。
この水路を一度サイクリングか ウォーキングで辿ってみたいという思いもあるのですが
コロナのため、まだ出来ていません。
非常に美しい古道もしくは古水道があるのではと思っています。
(観光資源としてもいいのではないかと思います。)
ある時、山腹にほぼ等高線にそって流れる水路を探るべく
車で辿れるところを何度か辿ってみました。
するとそこで仁科神明宮を発見したのです。
仁科神明宮マップ

以前から国宝仁科神明宮という看板は見ていましたが
その頃は歴史や神社などにも興味はありませんでしたから何気なしにみていました。
しかし農業用水路(どちらかといえば農業のほうに興味がありましたので)を
めぐるなかで農具川の支流である水路沿いに仁科神明宮を発見しました。
仁科神明宮のすぐ近くを流れる農具川水系取水の水路

その後、泉小太郎伝説を探るなかで川会神社に辿り着き
「川会」の川は 高瀬川とこの農業用水路に過ぎない農具川との合流地点という
ことを知った後は にわかに農具川に重大な内容が隠されていると感じられることと
なりました。
ひょっとすると
仁科神明宮も川会神社も 農業用水路の開拓時に創立された可能性があるのではないか。
そして、それはこの地の開発の祈念とともに、川のメンテナンスのために作られた神社では
ないかと考えられるのです。
この農具川の流域こそが
仁科濫觴記に書かれた「仁品王」が「九頭子」に命じた
開発計画の主要な計画ではなかったかとおもわれるのです。
仁品王が館を構え、中心地とした場所と農具川の水系を考えれば
非常にあり得る仮説だと思うのですがいかがでしょうか。

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2022年04月18日
検索 農具川1<泉小太郎伝説の実際(75)>
実はいままで省略してしまっていた部分になるのですが
僕はこの農具川及びその支流が仁品王が治水工事を命じて作らせた農業用水路ではないかと以前より考えて調査していました。
農具川水系のマップ
川の地図ですのでわかりづらいとは思いますが
この松本平、安曇平の北限にあたる木崎湖から
この地の東の山沿いを通る形で流れる川です。
往古より幾度も治水工事がなされているため
川筋の変遷は不明ですが
直線を含むルートであったり
等高線を意識したような標高まで計算された水路や
東側の水が不足がちな場所を遥か北で標高のたかい青木から取水するなど
農業用水路として開発されたものであることは理解していただけるかと思います。
農業用水は、昔から興味の対象で
泉小太郎の物語を知るのは10年前でしたが
農業用水の探究はずっと昔から行っており
その中でもこの農具川水系は興味をそそるものがおおく
よく池田町などを通り過ぎるたびに
高瀬川より遥か高い位置まで
田園が築かれている姿にどこから水を持ってきたのであろうと不思議でしかたがありませんでした。
ただ、農具川は名前の由来は不明なのですが
実際訪れていただければわかるのですが
農業用水路にすぎません。

その農業用水としか思えないと農具川と高瀬川の合流地点に川会神社が作られたと
川会神社に訪れて由来を知って初めて知ったのです。
しかも延喜式にものる川会神社です。
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