2022年02月25日
検索 田沢神明宮縁起3 <泉小太郎伝説の実際(24)>
次に。
『(要約)猿田彦としても知られる道祖神が授けた小太郎が持っていた「犀の矛」を鎮めて神明宮前に、犀の神を祀った。
そこを「犀の神原」と云う。一の鳥居の傍らの岸部である。猿田彦は、導きの神であり天照大御神の守りの神である。
船の守りの場合は「舟魂」ともいうので、あまの岩舟を造って天照が招来するときのために、ここに置いた。
のちに、それは長い石となり船石と云う。
(この船石は)天文の頃、悪徒が石工のために矢穴を掘ったけれども壊れることなく即時に眼がくらみ人家にはいって死んだ(と伝えられている)』
と途中から田沢神明宮にあった岩船の説明になる記述がある。
ここで、道祖神と猿田彦が出てくるのは、江戸時代までに進んだ神様と神様を結び付けたり(習合)する流行の流れで出てきた思想で、この時は「犀の神」を「塞(さい)の神」(道祖神のこと)と結び付けられたと考えています。
江戸時代には道祖神信仰と、この「犀の神」信仰の融合があったと考えることができます。
道祖神と猿田彦はどちらも道路案内の神として、二つの神は結び付けられています。
これもいずれ考察しますが
「小太郎殿持ちたもう犀の矛を鎮めて神明社の前面に犀の神を勧請したまう」
この一文。これも震えましたね。
小太郎が持っていた「犀の矛」を神明社前面におさめ、ここを犀ノ神原とし祀るとあります。
ここへきて初めて「犀の角」が、何らかの形として実在していたことが判明しました。
もともと「犀」というものを空想していた僕としては、
説が立証されたことになり、こんな風に自分の空想が肯定されることってあるのかと不思議にさえ思いました。
犀の矛として納められたものを、祀っている。
縁起ではその後、この場所が「円満寺」として神明宮と併設される様がありますので、
この神明宮の中では重要なポジションにあったと想像されます。
また、これは僕の全くの想像ですが、「船石にあったへさきを削った痕跡」と、
この「犀の矛」と「舟石」のことを同時に描いている文章から、
もともと一つのものであった「犀」を「角」と「胴体」に分け、
「角」の方を「犀の矛」としてまつり、
「胴体」のほうを「岩舟」としてまつったのではないかと考えました。
田沢神明宮縁起の別の記述箇所にも磐舟の場所を「犀の神原岩舟の」とあることからもそれをうかがうことが出来ます。
ただ、これらの検証は、「犀の角」が見つかって船石と石の組成をくらべない限りこれを立証できないのですが
いずれ、これを検証していく旅になるとは、この時点では想像していませんでした。
結論を先に述べておくと、この岩舟と犀の角を関連づけてしまったことで、
今後発見される事象に対して、大きく遠回りをすることを余儀なくされてしまったのですが
遠回りすることで発見できたことも多いので、
この誤解は
必要だったと今では思います。
昔の田沢神明宮の予想図を簡単に書いておきましょう。
いずれ書き直します。

泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら
『(要約)猿田彦としても知られる道祖神が授けた小太郎が持っていた「犀の矛」を鎮めて神明宮前に、犀の神を祀った。
そこを「犀の神原」と云う。一の鳥居の傍らの岸部である。猿田彦は、導きの神であり天照大御神の守りの神である。
船の守りの場合は「舟魂」ともいうので、あまの岩舟を造って天照が招来するときのために、ここに置いた。
のちに、それは長い石となり船石と云う。
(この船石は)天文の頃、悪徒が石工のために矢穴を掘ったけれども壊れることなく即時に眼がくらみ人家にはいって死んだ(と伝えられている)』
と途中から田沢神明宮にあった岩船の説明になる記述がある。
ここで、道祖神と猿田彦が出てくるのは、江戸時代までに進んだ神様と神様を結び付けたり(習合)する流行の流れで出てきた思想で、この時は「犀の神」を「塞(さい)の神」(道祖神のこと)と結び付けられたと考えています。
江戸時代には道祖神信仰と、この「犀の神」信仰の融合があったと考えることができます。
道祖神と猿田彦はどちらも道路案内の神として、二つの神は結び付けられています。
これもいずれ考察しますが
「小太郎殿持ちたもう犀の矛を鎮めて神明社の前面に犀の神を勧請したまう」
この一文。これも震えましたね。
小太郎が持っていた「犀の矛」を神明社前面におさめ、ここを犀ノ神原とし祀るとあります。
ここへきて初めて「犀の角」が、何らかの形として実在していたことが判明しました。
もともと「犀」というものを空想していた僕としては、
説が立証されたことになり、こんな風に自分の空想が肯定されることってあるのかと不思議にさえ思いました。
犀の矛として納められたものを、祀っている。
縁起ではその後、この場所が「円満寺」として神明宮と併設される様がありますので、
この神明宮の中では重要なポジションにあったと想像されます。
また、これは僕の全くの想像ですが、「船石にあったへさきを削った痕跡」と、
この「犀の矛」と「舟石」のことを同時に描いている文章から、
もともと一つのものであった「犀」を「角」と「胴体」に分け、
「角」の方を「犀の矛」としてまつり、
「胴体」のほうを「岩舟」としてまつったのではないかと考えました。
田沢神明宮縁起の別の記述箇所にも磐舟の場所を「犀の神原岩舟の」とあることからもそれをうかがうことが出来ます。
ただ、これらの検証は、「犀の角」が見つかって船石と石の組成をくらべない限りこれを立証できないのですが
いずれ、これを検証していく旅になるとは、この時点では想像していませんでした。
結論を先に述べておくと、この岩舟と犀の角を関連づけてしまったことで、
今後発見される事象に対して、大きく遠回りをすることを余儀なくされてしまったのですが
遠回りすることで発見できたことも多いので、
この誤解は
必要だったと今では思います。
昔の田沢神明宮の予想図を簡単に書いておきましょう。
いずれ書き直します。

泉小太郎伝説の実際を最初から読む
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2022年02月25日
検索 田沢神明宮縁起2 <泉小太郎伝説の実際(23)>
田沢神明宮縁起は縁起の例にもれずイザナギイザナミからはじまります。そこらへんは省いて、次に泉小太郎が現れますが、ほぼ信府統記の丸写しなので(龍や戸隠、日光東照宮なんかがが出てくる)そこらへんも省いてしまいます。
引用は、母親である犀龍で三清地(泉小太郎伝説では山清路 仁科濫觴紀では 山征地)を割いて水道を通している時の描写からはじめますが、煩雑さをさけるため 関係する部分の要約だけのせていきます。
『(中略)田沢村の南原にある「がまがふち」のほとりにて、鱗魔が怒って毒気をはきかけて、逆波が起こったため進めず、しばらく退却した。ここを尾入沢と言って田沢村の中にある。伊勢神宮の方角に祈念したところ、神の光が湖上を照らして波が治まった。そこで小太郎は「犀の広矛」で鱗魔を討ちとったら、三清瀧が出来て、水が流れた』
ここで、信府統記や泉小太郎伝説でも有名な堤開きの情景がかかれているのですが、僕は1点ひっかかりました。
この描写のなかで「犀の広矛」(さいのひろほこ)が登場します。犀龍にのっていたはずの泉小太郎が、「小太郎殿突けりし犀の広矛をもって」と「犀」を道具として使う描写があります。これは、やはり「犀」は道具で、しかも治水に使った道具、つまり古代の土木機械なのではないのかと思いました。
次に
『(要約)泉小太郎、犀川の川上にある田沢村にきてこの地に、社(やしろ)を造り天照大御神を祀り、有明の里の開拓の成就の恩を感謝した。田を開き、沢が出来たので田沢と名付けた。有明の里の開拓の最初がここである。これより人里がひらけて数万の民が繁栄した』
田沢神明宮の縁起ですので田沢をよく言っているのは間違いないと思います。
しかし、この縁起にもこの神社を泉小太郎が建てたとしていますし、「ひかるやま」の麓でもありますので、たしかに、泉太郎「ひかるくん」が治水工事後、この神明宮をたてたのではないかと考えます。
また、「神明宮」であって神社ではありません。(ひかるくんを祀っているのではなく、天照大神という神様を祀っている、つまり祖霊信仰ではない)このことは仁科神明宮との同時代性の可能性も考えても良いかもしれません。
引用は、母親である犀龍で三清地(泉小太郎伝説では山清路 仁科濫觴紀では 山征地)を割いて水道を通している時の描写からはじめますが、煩雑さをさけるため 関係する部分の要約だけのせていきます。
『(中略)田沢村の南原にある「がまがふち」のほとりにて、鱗魔が怒って毒気をはきかけて、逆波が起こったため進めず、しばらく退却した。ここを尾入沢と言って田沢村の中にある。伊勢神宮の方角に祈念したところ、神の光が湖上を照らして波が治まった。そこで小太郎は「犀の広矛」で鱗魔を討ちとったら、三清瀧が出来て、水が流れた』
ここで、信府統記や泉小太郎伝説でも有名な堤開きの情景がかかれているのですが、僕は1点ひっかかりました。
この描写のなかで「犀の広矛」(さいのひろほこ)が登場します。犀龍にのっていたはずの泉小太郎が、「小太郎殿突けりし犀の広矛をもって」と「犀」を道具として使う描写があります。これは、やはり「犀」は道具で、しかも治水に使った道具、つまり古代の土木機械なのではないのかと思いました。
次に
『(要約)泉小太郎、犀川の川上にある田沢村にきてこの地に、社(やしろ)を造り天照大御神を祀り、有明の里の開拓の成就の恩を感謝した。田を開き、沢が出来たので田沢と名付けた。有明の里の開拓の最初がここである。これより人里がひらけて数万の民が繁栄した』
田沢神明宮の縁起ですので田沢をよく言っているのは間違いないと思います。
しかし、この縁起にもこの神社を泉小太郎が建てたとしていますし、「ひかるやま」の麓でもありますので、たしかに、泉太郎「ひかるくん」が治水工事後、この神明宮をたてたのではないかと考えます。
また、「神明宮」であって神社ではありません。(ひかるくんを祀っているのではなく、天照大神という神様を祀っている、つまり祖霊信仰ではない)このことは仁科神明宮との同時代性の可能性も考えても良いかもしれません。