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2022年03月15日

検索 信玄堤5 <泉小太郎伝説の実際(41)>

話は「おみゆきさん」に戻りますが

治水の行事である川除祭と同時に行われる「おみゆきさん」は
神輿の担ぎ手は、紅おしろいに長じゅばん、花笠、たすきがけ、白い足袋という女性の格好をし
独特の「ソコダイ・ソコダイ」の掛け声とともに堤を踏み固める動作で練り歩きます。

わざわざ女装して練り歩くのが名物にもなっている祭りですが、女装する理由は不明だとされています。
僕は、これは武田軍によって乱妨取り(ひとさらい)された足弱(おんなこどものこと)が
信玄堤をつくったりメンテナンスして使役されていた時の歴史的事実の名残りなのではないかとも思うのです。

武田軍の軍記において信州の男は首を取られて殺されていますので
攫われてきたのは女こどもだけとなっています。

「明治以前日本土木史」には信玄堤は天文11年から始まったということですが
その前年の天文10年5月に、「海野平の戦い」によって上田の海野氏が敗北し
その時から天文年間に数度に渡って乱取りされた女子供が
竜王の地で信玄堤をつくったことの傍証にもなるのではないでしょうか。

 女性だけが使役されて堤をつくっている姿は、当時、近隣住民にとって異様に感じられたのではないかと思います。
 信玄堤が完成するまでの何年ものあいだ、女性が重い荷物を運び、地固めのために重量物をもって行き来する姿を見ていた人は、その人間がどこかに行ったあとも、印象的に感じていたのではないかと思います。
そして、メンテナンスのための川除祭の中で「おみゆきさん」として、神輿を担ぐ際も女性ではなくては、たたりが起きるかもしれないと、男性が女装をしておこなうようになったのではないかと思うのです。

さらに、滅ぼされた海野氏の棟梁は「幸氏」(ゆきし)ですので
海野の民にとって「幸」(ゆき)は特別な意味を持っていたと考えられます。
もともと「おみゆきさん」の名は、神様、天皇などが巡行することを
「御幸行」とするところから生まれたとされていますが
連れ去られた海野の民が
たまたまこの地にあった「御幸祭」と
故郷の海野の棟梁家の名である「幸氏」を重ね合わせ

「おみゆきさん」のお祭りとして
川のメンテナンスのための祭祀を取り仕切ったのではないでしょうか。

「御幸祭」自体は、山梨に古くからあったかもしれませんが
その内容は信玄堤の後と前では
日程や行程も大きく変化し
信玄堤のメンテナンスの行事となりました。

おそらくこの段階で「御幸祭」から
「おみゆきさん」と変わったのではないかと思うのです。

そう考えると女装で神輿を担ぐこの祭りも腑に落ちると思うのですがいかがでしょうか。

武田軍に乱妨取り(ひとさらい)された女だけが信玄堤をつくった時の名残り。

乱世の遺産 かもしれません



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Posted by 泉小太郎研究家 at 20:49Comments(0)泉小太郎伝説の実際