このブログのサイトマップ

2022年03月05日

検索 ふたたび「犀の角」を探して3 <泉小太郎伝説の実際(33)>

田沢神明宮にある岩舟の伝承
『天文の頃、悪徒の用に石工 矢穴を掘りけども破ることあたはず即時に眼くらみて人の家へ入り死せりと言う』をしらべました。

予想だにしない事実が判明します。(事実かどうかは読んだみなさんが判断してください)

『海野信親』 (ウィキペディアより)

『海野 信親(うんの のぶちか)は、戦国時代から安土桃山時代かけての人物。甲斐の戦国大名で武田氏当主の武田信玄(晴信)の次男。武田 竜芳(たけだ りゅうほう)とも、諱は勝重(かつしげ)とも呼ばれる』

武田竜芳(?)うん?なんでこれが検索されたんだろうたぶん竜の文字がひっかかったんだなと思いきや

他の記事の見出しに
「武田竜宝」の文字。

武田竜宝(たけだりゅうほう)で検索していくとついにこの文章を発見します。

『歴史研究海野』(2019 海野史研究会 All Rights Reserved. 信州海野郷 武舍秀雄製作)

海野氏の歴史
 (中略)
28代海野棟綱の嫡男幸義は海野平合戦で戦死した。(ここで海野氏が断絶)
 (中略)
永禄4年(西暦1561年)海野氏の家名を滅ぼすことは心ならぬと、信玄の二男次郎信親は、信濃の豪族海野幸義公の女子を妻として、海野民部丞竜宝と名乗り海野氏を継いだと言われている。
 (中略) 竜宝は、生まれつきに目が不自由であったため、早くから仏門に帰依しており、信玄の近くに仕えていた
 (中略)永禄10年(1567)10月に信玄の長男が亡くなり、二男の信親は盲目であったため、三男の勝頼が(信玄のあとを)継ぐことになった。
 (中略)武田氏滅亡、その報を聞くと海野竜宝は、天正10年(西暦1582年)3月に入明寺で自害し果てた。42歳であった。
 
 これが、武田竜宝こと、海野竜宝こと 武田信親の一生です。
 
これどう思いますか?

 太字下線の部分だけピックアップします。

西暦1561年 信玄の二男次郎信親は
海野民部丞竜宝と名乗り海野氏を継いだ
竜宝は、生まれつきに目が不自由であった
西暦1582年 入明寺で自害し果てた。

 ここでもう一度 田沢神明宮の縁起と比べてみます。

「天文の頃、悪徒の用に石工 矢穴を掘りけども破ることあたはず即時に眼くらみて人の家へ入り死セリと云う」

 眼くらみて    → 生まれつき目が不自由
 人の家へ入り   → この地方を治めていた海野氏を継ぎ
 即時に死せり   → 信長軍により21年の治世で死ぬ

 
この伝承の悪徒とは、海野竜宝のことを言っていると思いませんか。


※※※※※※※※※
実は こののち 入明寺を訪問すると
海野竜宝の失明時期が
生まれつき目が不自由だったのではなく
15歳の時に失明となったことが判明します。

15歳を計算すると天文二十二年となり
まさに、田沢神明宮が壊滅した年の翌年か翌々年にあたります。
15歳といえば初陣の可能性があります

「即時に眼くらみて」 → 「田沢を攻めた翌年に失明し」
となります。
この詳細は後日述べます。


泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら  


Posted by 泉小太郎研究家 at 12:39Comments(0)泉小太郎伝説の実際

2022年03月05日

検索 ふたたび「犀の角」を探して2 <泉小太郎伝説の実際(32)>

『天文の頃、悪徒の用に石工 矢穴を掘りけども破ることあたはず即時に眼くらみて人の家へ入り死せりと言う』

『(要約)天文年間に、悪徒が石をつかうために、矢による傷をつけたが壊れることはなかった。(傷をつけたものは)即時に盲目となり 人の家へ入り(?)死んだと伝えられている』

この伝承をたどればひょっとして「犀の角」を見つけられるのではないかと
探索を始めました。

そして実は、この伝承の暗号を解くことが出来たと思っています。


先ほどの一文をもう一度読んでみましょう。
「即時に盲目となって人の家へ入り死んだ」とあります。

僕はまず、この「人の家へ入り」という文章に違和感を感じます。

どういう意味なんだろう?
即時に盲目となったとあり「目の見えない人がそうは遠くまでいけないだろう」と思い
これは「近くの人家が伝承しているということを示してるのではないか」と思い車を走らせ、
近くに人家がないかと探してみました。

しかし、人家そのものが近くにはなくこのアプローチは完全に間違っていると思いあきらめました。

次に、「悪徒」とは「武田軍」であり、その武田軍が略奪したのだからひょっとして、
武田信玄「犀の角」がもっているんじゃないの?と思いました。
各地の秘仏も武田軍によって奪われているという前例もあります。

そこでつぎつぎに検索をしはじめました。

 「武田信玄 宝」で、武田信玄の宝物館があることがわかり、品目等を調べましたがそれらしいものはありません。
 「武田信玄 犀の角」検索そのものがありません。
 「武田信玄 犀」 なし
 「武田信玄 角」 鎧かぶとが検索されます。

やっぱりだめか。。。

 しかし、つぎの検索で急転します。

 「武田信玄 龍の宝」

この検索をするとなんと次の名が上がってくるのです。

「海野信親 – Wikipedia」

? なんでこの検索結果?
でも!!海野の名前?
武田軍に滅ぼされるまで、この地を治めていたのが海野氏です。

海野一族が生き残っていて、この人が「犀の角」を持ちだして保管していたのか?

そうおもってこの「海野信親」(うんののぶちか)を検索しはじめました。


泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら
  


Posted by 泉小太郎研究家 at 12:35Comments(0)泉小太郎伝説の実際

2022年03月05日

検索 ふたたび「犀の角」を探して1 <泉小太郎伝説の実際(31)>

武田軍の進軍によりこの地方の神社や寺は
ことごとく(大事なことなので2回言います ことごとく)
壊滅してしまい、それまで伝わった神宝や古伝、由緒は
灰燼となりました。


まずはここで一つ謝りたいことがあります。
それは「信府統記」に対してです。

「ひかるくん」を「泉小太郎」とし、犀龍や白龍王の伝説を作り上げ、坂上田村麻呂伝説などをでっちあげたというあの本です。

この本の中でも、何度か批判したりもしていました。

しかし、すくなくとも泉小太郎伝説に関しては、戦乱のため
あたるべき資料が壊滅していたということが判明したため(戦乱終結から100年以上あと)、
今では逆に信府統記は、
江戸時代、戦乱によって途絶えた安曇野やその他の伝承をなくなる前に保存したのではないかと考えるようになりました。
そして、村々を回って口伝という形で伝えられた安曇野の伝説を集め一つにした。
手法はともかく、失われる前にという思いは戦乱終結100年たったあとであれば急務だったのかもしれません。

またこの地方の神社の由緒がどれもこれも画一的で
同じような伝承になってしまっているのは
それまでの由緒が壊滅し、伝えていた人々も
いなくなってしまっていたために江戸時代に復活させた経緯があったのです。



さて話を戻しますが

僕がこの天文年間の事実を調べるきっかけになったのは、
「犀の角」を探すために、田沢神明宮にある次の一文を調べ始めたからでした。
もう一度書きます。

『天文の頃、悪徒の用に石工 矢穴を掘りけども破ることあたはず即時に眼くらみて人の家へ入り死せりと言う』


『(要約)天文年間に、悪徒が石をつかうために、矢による傷をつけたが壊れることはなかった。(傷をつけたものは)即時に盲目となり 人の家へ入り(?)死んだと伝えられている』

では犀の角つまり犀矛はどこへ行った?



泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら  


Posted by 泉小太郎研究家 at 12:13Comments(0)泉小太郎伝説の実際