2022年03月20日
検索 竜宝の墓 入明寺2 <泉小太郎伝説の実際(46)>
実際に現地に行って確かめてみると
竜宝の墓が「犀の角」という説は間違いだったということを感じました。
「犀の角」としては空振りでしたが
この入明寺で、今までのネット検索とは違う伝承を発見しました。
細かい話になりますが
竜宝の失明は、ネット上では「幼い頃」となっていましたが
入明寺のパンフレットでは「15歳の頃」とあり
それを計算すると
ちょうど田沢神明宮(たざわしんめいぐう)を攻めた天文二十二年の翌年か翌々年ということになります。
そうなると例の田沢神明宮の一文の、「即時に眼くらみて」がいよいよ、実際その通りだったことになります。
以下、いままでの説と、今回判明した事実を比較します。(赤字が今回の修正部分です)
西暦1561年 信玄の二男次郎信親は
海野民部丞竜宝と名乗り海野氏を継いだ
竜宝は、生まれつきに目が不自由であった(15歳で盲目となる)
西暦1582年 入明寺で自害し果てた。
ここにもう一度田沢神明宮の縁起を記します。
「天文の頃、悪徒の用に石工 矢穴を掘りけども破ることあたはず 即時に眼くらみて人の家へ入り死セリと云う」
即時に →(この地を侵略した翌年)
眼くらみて →生まれつき目が不自由(盲目となり)
人の家へ入り → この地方を治めていた海野氏を継ぎ
即時に死せり → 信長軍により21年の治世で死ぬ。
ここまで、状況がそろうと、おそらく竜宝は初陣で、田沢神明宮のあたりを攻めた戦闘に参加し、本当にあの船石を傷つけた張本人であったということさえあり得ます。
これもだいぶ震えた事実でした。
しかし、では 犀の角はどこに行ったのでしょうか。また振り出しに戻ったことになります。
でも、犀の角は戦火を避けてどこか、安曇野の地に隠されている可能性も出てきました。僕が知らないだけでどこかに祀られているかもしれない、そう思い再び、二年目の犀の角の探索が始まったのでした。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
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竜宝の墓が「犀の角」という説は間違いだったということを感じました。
「犀の角」としては空振りでしたが
この入明寺で、今までのネット検索とは違う伝承を発見しました。
細かい話になりますが
竜宝の失明は、ネット上では「幼い頃」となっていましたが
入明寺のパンフレットでは「15歳の頃」とあり
それを計算すると
ちょうど田沢神明宮(たざわしんめいぐう)を攻めた天文二十二年の翌年か翌々年ということになります。
そうなると例の田沢神明宮の一文の、「即時に眼くらみて」がいよいよ、実際その通りだったことになります。
以下、いままでの説と、今回判明した事実を比較します。(赤字が今回の修正部分です)
西暦1561年 信玄の二男次郎信親は
海野民部丞竜宝と名乗り海野氏を継いだ
西暦1582年 入明寺で自害し果てた。
ここにもう一度田沢神明宮の縁起を記します。
「天文の頃、悪徒の用に石工 矢穴を掘りけども破ることあたはず 即時に眼くらみて人の家へ入り死セリと云う」
即時に →(この地を侵略した翌年)
眼くらみて →
人の家へ入り → この地方を治めていた海野氏を継ぎ
即時に死せり → 信長軍により21年の治世で死ぬ。
ここまで、状況がそろうと、おそらく竜宝は初陣で、田沢神明宮のあたりを攻めた戦闘に参加し、本当にあの船石を傷つけた張本人であったということさえあり得ます。
これもだいぶ震えた事実でした。
しかし、では 犀の角はどこに行ったのでしょうか。また振り出しに戻ったことになります。
でも、犀の角は戦火を避けてどこか、安曇野の地に隠されている可能性も出てきました。僕が知らないだけでどこかに祀られているかもしれない、そう思い再び、二年目の犀の角の探索が始まったのでした。
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