2022年02月28日
検索 知りたくなかった「天文年間」2 <泉小太郎伝説の実際(29)>
天文年間にこの地になにが起きたか。
詳細は専門家に任せますが
天文10年 海野平の戦いで本家海野氏が断絶。
そこから 小岩岳城の戦いもふくめ最終的には
天文22年 刈谷原城の攻防で、刈谷原城、塔の原城、光城、田沢城、会田城が落城
この期におよんで 鎌倉時代に海野氏から分かれた
中信海野5家 苅谷原氏 塔の原氏 光氏 田沢氏 会田氏
が滅亡する。
光城山を調べた時に出てきた海野氏が関係してくるなんて思ってもみませんでした。
海野氏も調べると、なんと平安時代からの系譜をもつ古い氏族です。
名前に小太郎の名前が散見されますので、千曲川沿いの小太郎伝説は海野氏のことかもしれません。
(小泉小太郎伝説についてはいつか述べます。)
とにかくここで海野氏が完全断絶します。
さて、話をもどして
天文年間。
実はこの地は、天文10年~天文22年までの12年間にも及ぶ戦乱に巻き込まれてしまっていたのです。
さらに調べてみると、ここが本当に書きたくないのですが、
武田信玄は「乱妨取り」で知られていたということなのです。
『乱妨取り』 (ウィキペディアより)
『乱妨取り(らんぼうどり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、
戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取)と呼称された。
当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。
人狩りの戦利品が戦後、市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、
褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。』
つまり、戦乱という名の略奪行為が認められており、それを目的に従軍した人々こそが「悪徒」だったのです。
前述した小岩岳城の戦いの中で武田側の記録「勝山記」にはこうあります。
「この年も信州へ御働きを候、小岩岳と申候要害をせめとしめされ候、打取る頸五百余人、足弱取る事、数を知らず候」
足弱とは女子供のことであります。
間違いなく、略奪、人さらい、しかも12年間も。
しかも、さらって売るために市がたったということで、
このさらわれた人たちは人身売買されて散り散りになってしまったのです。
武田信玄のイメージがガラッと変わってしまいました。
この事実を知るとあの武田信玄の名言「人は城、人は石垣、人は堀」も違った言葉で聞こえます。
(ちなみにまさにこの記事をUPする今日の信濃毎日新聞には
川中島の合戦時に天文24年に 川中島の戦費負担として
武田信玄が臨時税として小国に数億円要求した文書が出てきたという記事が載っていました。)
武田信玄が信州に行った壊滅的な略奪行為を知ってしまった身としては
信州人が武田信玄をことさらに美化するのには
かなり抵抗を覚えます。
この武田軍については いずれまた「その後の武田軍」という記事を書きたいと思います。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
泉小太郎伝説を調べまくるの 目次はこちら
詳細は専門家に任せますが
天文10年 海野平の戦いで本家海野氏が断絶。
そこから 小岩岳城の戦いもふくめ最終的には
天文22年 刈谷原城の攻防で、刈谷原城、塔の原城、光城、田沢城、会田城が落城
この期におよんで 鎌倉時代に海野氏から分かれた
中信海野5家 苅谷原氏 塔の原氏 光氏 田沢氏 会田氏
が滅亡する。
光城山を調べた時に出てきた海野氏が関係してくるなんて思ってもみませんでした。
海野氏も調べると、なんと平安時代からの系譜をもつ古い氏族です。
名前に小太郎の名前が散見されますので、千曲川沿いの小太郎伝説は海野氏のことかもしれません。
(小泉小太郎伝説についてはいつか述べます。)
とにかくここで海野氏が完全断絶します。
さて、話をもどして
天文年間。
実はこの地は、天文10年~天文22年までの12年間にも及ぶ戦乱に巻き込まれてしまっていたのです。
さらに調べてみると、ここが本当に書きたくないのですが、
武田信玄は「乱妨取り」で知られていたということなのです。
『乱妨取り』 (ウィキペディアより)
『乱妨取り(らんぼうどり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、
戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取)と呼称された。
当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。
人狩りの戦利品が戦後、市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、
褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。』
つまり、戦乱という名の略奪行為が認められており、それを目的に従軍した人々こそが「悪徒」だったのです。
前述した小岩岳城の戦いの中で武田側の記録「勝山記」にはこうあります。
「この年も信州へ御働きを候、小岩岳と申候要害をせめとしめされ候、打取る頸五百余人、足弱取る事、数を知らず候」
足弱とは女子供のことであります。
間違いなく、略奪、人さらい、しかも12年間も。
しかも、さらって売るために市がたったということで、
このさらわれた人たちは人身売買されて散り散りになってしまったのです。
武田信玄のイメージがガラッと変わってしまいました。
この事実を知るとあの武田信玄の名言「人は城、人は石垣、人は堀」も違った言葉で聞こえます。
(ちなみにまさにこの記事をUPする今日の信濃毎日新聞には
川中島の合戦時に天文24年に 川中島の戦費負担として
武田信玄が臨時税として小国に数億円要求した文書が出てきたという記事が載っていました。)
武田信玄が信州に行った壊滅的な略奪行為を知ってしまった身としては
信州人が武田信玄をことさらに美化するのには
かなり抵抗を覚えます。
この武田軍については いずれまた「その後の武田軍」という記事を書きたいと思います。
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2022年02月28日
検索 知りたくなかった「天文年間」1 <泉小太郎伝説の実際(28)>
田沢神明宮縁起には天文年間に関する記述が二回出てきます。
一つめは
「天文の頃、悪徒の用に石工矢穴を掘りけども破ることあたはず即時に眼くらみて人の家へ入り死せりと云う」
二つ目は
天文のころ乱世にて悪徒のために(併設されていた)円満寺焼失する 惜しいかなそののち再興もなく(円満寺は)廃絶す 宝蔵も焼亡するゆえ古伝の書巻神宝等も紛失す その頃は当所困窮し里民、神職の者も頼りを失い修補の力なく社頭減少しける云々
僕は、恥ずかしながら天文年間という時代がどういう時代なのかをしらず
田沢神明宮にあった船石の説明文を読んで
江戸時代の盗賊が盗んだものだとおもってしまっていました。
でも天文年間を調べたら、
『天文(元号)』(ウィキペディアより)
『天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝』
あれ?江戸時代じゃない。戦国時代だ。
起きた出来事をウィキペディアで調べてみても
『(天文)10年6月14日(1541年): 甲斐国守護武田家で武田晴信(後の武田信玄)が父の信虎を追放することで当主交代。当主となった晴信は海野平合戦を契機に信濃侵攻を開始。』という内容が出てきます。
あれ?武田信玄が信濃侵攻開始?しかも海野平合戦って
まさに光城山の城主って海野氏一族じゃなかったっけ?
え?悪徒って盗人じゃなくて、武田軍?
たしかに田沢神明宮縁起にも「天文ノ頃 乱世にて」とある。
僕の想像した悪徒は一人でしたが、違う!武田軍だ。(英語なら単数と複数で単語が違うので一目瞭然ですが)
悪徒って書かれているから一人だとおもいますよね。
田沢神明宮にある説明文も「心なき者」とあるから勘違いしていました。
何が起こったんだ?武田軍だったら軍記があるはずなので詳しい状況がわかるはず。
すると。。。。。書きたくない。。。。
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
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一つめは
「天文の頃、悪徒の用に石工矢穴を掘りけども破ることあたはず即時に眼くらみて人の家へ入り死せりと云う」
二つ目は
天文のころ乱世にて悪徒のために(併設されていた)円満寺焼失する 惜しいかなそののち再興もなく(円満寺は)廃絶す 宝蔵も焼亡するゆえ古伝の書巻神宝等も紛失す その頃は当所困窮し里民、神職の者も頼りを失い修補の力なく社頭減少しける云々
僕は、恥ずかしながら天文年間という時代がどういう時代なのかをしらず
田沢神明宮にあった船石の説明文を読んで
江戸時代の盗賊が盗んだものだとおもってしまっていました。
でも天文年間を調べたら、
『天文(元号)』(ウィキペディアより)
『天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝』
あれ?江戸時代じゃない。戦国時代だ。
起きた出来事をウィキペディアで調べてみても
『(天文)10年6月14日(1541年): 甲斐国守護武田家で武田晴信(後の武田信玄)が父の信虎を追放することで当主交代。当主となった晴信は海野平合戦を契機に信濃侵攻を開始。』という内容が出てきます。
あれ?武田信玄が信濃侵攻開始?しかも海野平合戦って
まさに光城山の城主って海野氏一族じゃなかったっけ?
え?悪徒って盗人じゃなくて、武田軍?
たしかに田沢神明宮縁起にも「天文ノ頃 乱世にて」とある。
僕の想像した悪徒は一人でしたが、違う!武田軍だ。(英語なら単数と複数で単語が違うので一目瞭然ですが)
悪徒って書かれているから一人だとおもいますよね。
田沢神明宮にある説明文も「心なき者」とあるから勘違いしていました。
何が起こったんだ?武田軍だったら軍記があるはずなので詳しい状況がわかるはず。
すると。。。。。書きたくない。。。。
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2022年02月27日
したくなかった検索 「犀の角をもとめて」2 <泉小太郎伝説の実際(27)>
田沢神明宮の繁栄が続いていたのなら
「ひかるくん」の伝承は残っていたはずで
それをみた信府統記作家も参照したに違いなく
もっと華々しい終わり方であったはずです。
そうなんです。「ひかるくん」の築いた田沢の地はその後繁栄しなかったのです。
先ほど、田沢神明宮に伝えられている繁栄の記録を紹介しました。
実は誤りがあります。というより故意に書かなかった言葉があります。
それは、どの繁栄の記録にも、「上古では」とか「昔は」という接頭語がつけられているのです。
江戸時代には田沢神明宮は廃れており、今もウィキペディアはもちろん、グーグルマップにすら載っていません。
(ただし2022年現在はUPされています)
なぜか。それも縁起には記載されています。
①分社して、各村々で祀るようになったため、田沢村一村のみの氏神となったから
②文禄年間に川の氾濫により田沢の地が分割減少してしまったから
③田沢神明宮縁起では、円満寺(犀の矛を祀った場所にできた寺)という寺が併設されるが、
その円満寺も、天文年間(例の犀の石破りの時と同じ天文年間)悪徒のために焼失、
古伝の書巻も宝物も失った。氏子も離散しており復旧しようとしたが修補の力もなくなったから
とあります。
豊科町誌は、川会神社という川に流された神社を例にだし
この地は川の増水氾濫のため、民の生活は脅かされていたと触れています。
確かにそうかもしません。ただ、治水の天才、「ひかるくん」の治めた地です。
僕の中ではこの説明に釈然としないのです。
だったら、なぜ洪水を防げなかったのか?自然にはやっぱり勝てなかったのか。(無理もないか)
あとは、悪徒が、起こした火事でもう復旧できないなんて。
しかも、悪徒(僕は江戸時代の盗賊だとおもっていました)は
僕の大事な犀の角まで持って逃げたのです。この時僕はふと気が付きました。
まてよ?でも、この悪徒の後をたどれば、犀の角を発見できるのでは?
悪徒が火事を起こしたとされる天文年間をしらべはじめました。
歴史に詳しい人ならこのあと何がおこったか
もちろんわかっていると思うのですが
次の検索は「天文年間」についてです。
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「ひかるくん」の伝承は残っていたはずで
それをみた信府統記作家も参照したに違いなく
もっと華々しい終わり方であったはずです。
そうなんです。「ひかるくん」の築いた田沢の地はその後繁栄しなかったのです。
先ほど、田沢神明宮に伝えられている繁栄の記録を紹介しました。
実は誤りがあります。というより故意に書かなかった言葉があります。
それは、どの繁栄の記録にも、「上古では」とか「昔は」という接頭語がつけられているのです。
江戸時代には田沢神明宮は廃れており、今もウィキペディアはもちろん、グーグルマップにすら載っていません。
(ただし2022年現在はUPされています)
なぜか。それも縁起には記載されています。
①分社して、各村々で祀るようになったため、田沢村一村のみの氏神となったから
②文禄年間に川の氾濫により田沢の地が分割減少してしまったから
③田沢神明宮縁起では、円満寺(犀の矛を祀った場所にできた寺)という寺が併設されるが、
その円満寺も、天文年間(例の犀の石破りの時と同じ天文年間)悪徒のために焼失、
古伝の書巻も宝物も失った。氏子も離散しており復旧しようとしたが修補の力もなくなったから
とあります。
豊科町誌は、川会神社という川に流された神社を例にだし
この地は川の増水氾濫のため、民の生活は脅かされていたと触れています。
確かにそうかもしません。ただ、治水の天才、「ひかるくん」の治めた地です。
僕の中ではこの説明に釈然としないのです。
だったら、なぜ洪水を防げなかったのか?自然にはやっぱり勝てなかったのか。(無理もないか)
あとは、悪徒が、起こした火事でもう復旧できないなんて。
しかも、悪徒(僕は江戸時代の盗賊だとおもっていました)は
僕の大事な犀の角まで持って逃げたのです。この時僕はふと気が付きました。
まてよ?でも、この悪徒の後をたどれば、犀の角を発見できるのでは?
悪徒が火事を起こしたとされる天文年間をしらべはじめました。
歴史に詳しい人ならこのあと何がおこったか
もちろんわかっていると思うのですが
次の検索は「天文年間」についてです。
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2022年02月27日
したくなかった検索 「犀の角をもとめて」1<泉小太郎伝説の実際(26)>
僕はハッピーエンドが好きです。
ですから、この泉小太郎(たつのこたろう)伝説に関しても、
前章にのべたような田沢神明宮の縁起にあるとおり
村里が繁栄し、祭りには犀川と光城山に火を灯して
泉小太郎を祀るという幸せな情景の締めくくりに大満足したかったのです。
間違うことがないように言うと、泉小太郎である「ひかるくん」の物語は間違いなくハッピーエンドです。
本当に彼のおかげで安曇野の地は繁栄しました。
この地の開祖であるのも間違いありません。
もちろんきっかけは仁科濫觴記によれば
「仁品王」であり「九頭子」であり「保高見熱躬」でしたが、
常に民とともにあった「ひかるくん」は人々にも好かれ、
その偉業はたとえ「ひかる」の名が忘れ去られたとしても泉小太郎伝説となり、今の世にも伝えられるくらいです。
でも。です。
でも、それならばなぜ、「ひかる」の名は忘れ去られ、
泉小太郎伝説の終わりかたはあんなにも物悲しいものになってしまったのでしょう。
「堤を破って日本海に消えていく」という民話であったり
信府統記では「仏崎に身を隠す」などの情景が描かれるのです。
はっきり言って古代でこれだけのことをしたら、
もっと華々しい終わり方か、すくなくとも喜びにあるれる民の笑顔でおわってもいいはずです。
もちろん、簡単な理由ならあげられます。
仁科宗一郎氏も述べているように「ひかるくん」つまり白水郎日光の名は、
仁科濫觴記には治水終了後一切出てこなくなるのです。
ですから、元ネタの仁科濫觴記をみてつくられた信府統記などの伝説では
泉小太郎がフェイドアウトするような印象の文章となる。
これは、正しい。でも。
でも、もし、そうであっても田沢神明宮の繁栄が続いていたら、
「ひかるくん」の伝承は残っており、それをみた信府統記作家も参照したに違いなく、
もっと華々しい終わり方であったはずです。
なぜこのような物悲しい物語になってしまったのでしょうか?
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2022年02月26日
検索 田沢神明宮縁起4 <泉小太郎伝説の実際(25)>
その後、この神明宮の縁起は、当時の信仰形態について語っています。
『最初は3月25日(途中から信託あって7月16日)には、光城山と犀川のほとりに明かりをともし、有明の里(安曇野)から見えるようにして竜神を祭るように泉小太郎が命ずる』とあります。
光山(ひかるやま)のふもとの犀川沿いにともしびを並べて有明(安曇野)から竜神を祀るってものすごくロマンチックではないでしょうか。
今は高速道路がとおってしまっているため、これを復活しても有明の里から見渡すことはできないのが残念ですが、もし高速道路がなかったとすると、この光をともした情景は安曇野各地から見えたはずで古代や中世にあってはとても心に残る情景だったことでしょう。
ちなみに今もやっているかどうかわかりませんが光城山に白鳥の形を模した大文字みたいな電光を灯すことがありましたが、あれはかなり遠くからでも見えました。あれが犀川の流れに灯りをともしたものにかわったと思っていただければ美しさや遠くからの感動も感じていただけるでしょう。
(高速道路がなかったらきっとこれプロジェクト化できたのに!!)
これを企画した「ひかる」プロデューサーの手腕を感じます。
田沢神明宮縁起は、この後、信府統記と同じように坂上田村麻呂伝説、八面大王伝説に続いていき、泉小太郎の影はなくなってきますが、明らかな繁栄をしめします。
僕が望む、華々しいハッピーエンドにたどり着きました!!
神明宮縁起にも繁栄のさまが書かれています。
(この宮の縁起なので話半分としてお聞きください)
『信濃の国に神明の霊地7カ所あり。信濃七神明と申し奉る
苅谷沢神明宮 会田宮本神明宮 麻績神明宮 川手潮村神明宮
仁科宮本神明宮 更級小市神明宮 犀川上田沢神明宮
そのうち当村の神明宮は上古より神威が殊に著しい霊地である。
七神明宮のうち随一なりと感じるのは諸人の知る所なり。
社殿も賑々しく人々はこぞって崇敬し、里の民は皆で厳重に祭祀を務めた
人々は正直にて日夜滞りなく神慮を涼め奉つ。
この神社は伊勢内宮の移しであり、有明の里の開所の地の古跡が今も残っている。山内に入って一の鳥居に入れば人家を離れ山がそびえている、目の前には流水が清く千年を超えるような樹木が茂っている前には犀ノ神原船石あり
小田が続く田沢川の流れは伊勢の五十鈴川と見え、御手洗水も流れを分かちたるものなり。掛かっている橋も天の浮き橋とみえ、伊勢神宮の宇治橋に似ている。鳥は囀り獣は遊ぶ。風のこずえは塵を払って水も垢を落とす。ここは天長地久万世不朽の霊地なり。
この地は五穀豊穣で男女繁栄し村野安全で皆豊かで楽しんでいる。』
たつのこたろうこと、泉小太郎こと あまのひかる は大成した。
彼のなした治水は華々しい成果をあげ、かれは慕われ村々は賑わった。
人々はその豊穣に喜び、祝い、年に一回の祭りでは光城山と犀川沿いに灯をならべてその豊かな暮らしに感謝した。
その光景は安曇野の地の全域から伺うことができ、安曇野の村々の民たちは皆、その犀龍が夜ひかり踊る姿をみて、豊穣を喜びあった。
この田沢神明宮縁起を読んだときには気がつかなかったのですが
この「犀川」と「光城山」に灯火をともした祀りの風景は
まさに犀川に光城山が乗っているように見えるはずで、
この情景から「犀龍」の背に、「ひかる」こと「泉小太郎」が乗り活躍する壮大な泉小太郎伝説が生まれたのかもしれないと思うのです。


その犀龍の向かう先は打ち破ったとされる、山清路とその先の日本海。
「泉小太郎は犀龍とともに日本海まで流れ下ったのでした」 の最後の一文にようやく到達することになるのでした。
めでたしめでたし
おしまい
。。。としたい。。。。
でも、まだ続いていしまう。。。。
ここまで読んでくれた方ありがとうございます。
ここまでが泉小太郎を知る上で
知っておきたい基礎情報でしたので長文覚悟で載せました。
非常に読みにくかったかと思います。
「信府統記」「仁科濫觴記」「田沢神明宮縁起」という3つの古文書を読むことで
この地にのこる泉小太郎伝説が、いよいよ紐解かれ始めます。
実はこの3つの古文書に出会うまでに8年ほどかかり
それまでは、
農学部出身者として、
この地の田んぼや水利に興味があり
その不思議さをめぐるのが主な探究手法でありました。
このあと本当にいよいよ
歴史のパズルに巻き込まれていきます。
お楽しみください
泉小太郎伝説の実際を最初から読む
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『最初は3月25日(途中から信託あって7月16日)には、光城山と犀川のほとりに明かりをともし、有明の里(安曇野)から見えるようにして竜神を祭るように泉小太郎が命ずる』とあります。
光山(ひかるやま)のふもとの犀川沿いにともしびを並べて有明(安曇野)から竜神を祀るってものすごくロマンチックではないでしょうか。
今は高速道路がとおってしまっているため、これを復活しても有明の里から見渡すことはできないのが残念ですが、もし高速道路がなかったとすると、この光をともした情景は安曇野各地から見えたはずで古代や中世にあってはとても心に残る情景だったことでしょう。
ちなみに今もやっているかどうかわかりませんが光城山に白鳥の形を模した大文字みたいな電光を灯すことがありましたが、あれはかなり遠くからでも見えました。あれが犀川の流れに灯りをともしたものにかわったと思っていただければ美しさや遠くからの感動も感じていただけるでしょう。
(高速道路がなかったらきっとこれプロジェクト化できたのに!!)
これを企画した「ひかる」プロデューサーの手腕を感じます。
田沢神明宮縁起は、この後、信府統記と同じように坂上田村麻呂伝説、八面大王伝説に続いていき、泉小太郎の影はなくなってきますが、明らかな繁栄をしめします。
僕が望む、華々しいハッピーエンドにたどり着きました!!
神明宮縁起にも繁栄のさまが書かれています。
(この宮の縁起なので話半分としてお聞きください)
『信濃の国に神明の霊地7カ所あり。信濃七神明と申し奉る
苅谷沢神明宮 会田宮本神明宮 麻績神明宮 川手潮村神明宮
仁科宮本神明宮 更級小市神明宮 犀川上田沢神明宮
そのうち当村の神明宮は上古より神威が殊に著しい霊地である。
七神明宮のうち随一なりと感じるのは諸人の知る所なり。
社殿も賑々しく人々はこぞって崇敬し、里の民は皆で厳重に祭祀を務めた
人々は正直にて日夜滞りなく神慮を涼め奉つ。
この神社は伊勢内宮の移しであり、有明の里の開所の地の古跡が今も残っている。山内に入って一の鳥居に入れば人家を離れ山がそびえている、目の前には流水が清く千年を超えるような樹木が茂っている前には犀ノ神原船石あり
小田が続く田沢川の流れは伊勢の五十鈴川と見え、御手洗水も流れを分かちたるものなり。掛かっている橋も天の浮き橋とみえ、伊勢神宮の宇治橋に似ている。鳥は囀り獣は遊ぶ。風のこずえは塵を払って水も垢を落とす。ここは天長地久万世不朽の霊地なり。
この地は五穀豊穣で男女繁栄し村野安全で皆豊かで楽しんでいる。』
たつのこたろうこと、泉小太郎こと あまのひかる は大成した。
彼のなした治水は華々しい成果をあげ、かれは慕われ村々は賑わった。
人々はその豊穣に喜び、祝い、年に一回の祭りでは光城山と犀川沿いに灯をならべてその豊かな暮らしに感謝した。
その光景は安曇野の地の全域から伺うことができ、安曇野の村々の民たちは皆、その犀龍が夜ひかり踊る姿をみて、豊穣を喜びあった。
この田沢神明宮縁起を読んだときには気がつかなかったのですが
この「犀川」と「光城山」に灯火をともした祀りの風景は
まさに犀川に光城山が乗っているように見えるはずで、
この情景から「犀龍」の背に、「ひかる」こと「泉小太郎」が乗り活躍する壮大な泉小太郎伝説が生まれたのかもしれないと思うのです。


その犀龍の向かう先は打ち破ったとされる、山清路とその先の日本海。
「泉小太郎は犀龍とともに日本海まで流れ下ったのでした」 の最後の一文にようやく到達することになるのでした。
めでたしめでたし
おしまい
。。。としたい。。。。
でも、まだ続いていしまう。。。。
ここまで読んでくれた方ありがとうございます。
ここまでが泉小太郎を知る上で
知っておきたい基礎情報でしたので長文覚悟で載せました。
非常に読みにくかったかと思います。
「信府統記」「仁科濫觴記」「田沢神明宮縁起」という3つの古文書を読むことで
この地にのこる泉小太郎伝説が、いよいよ紐解かれ始めます。
実はこの3つの古文書に出会うまでに8年ほどかかり
それまでは、
農学部出身者として、
この地の田んぼや水利に興味があり
その不思議さをめぐるのが主な探究手法でありました。
このあと本当にいよいよ
歴史のパズルに巻き込まれていきます。
お楽しみください
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2022年02月25日
検索 田沢神明宮縁起3 <泉小太郎伝説の実際(24)>
次に。
『(要約)猿田彦としても知られる道祖神が授けた小太郎が持っていた「犀の矛」を鎮めて神明宮前に、犀の神を祀った。
そこを「犀の神原」と云う。一の鳥居の傍らの岸部である。猿田彦は、導きの神であり天照大御神の守りの神である。
船の守りの場合は「舟魂」ともいうので、あまの岩舟を造って天照が招来するときのために、ここに置いた。
のちに、それは長い石となり船石と云う。
(この船石は)天文の頃、悪徒が石工のために矢穴を掘ったけれども壊れることなく即時に眼がくらみ人家にはいって死んだ(と伝えられている)』
と途中から田沢神明宮にあった岩船の説明になる記述がある。
ここで、道祖神と猿田彦が出てくるのは、江戸時代までに進んだ神様と神様を結び付けたり(習合)する流行の流れで出てきた思想で、この時は「犀の神」を「塞(さい)の神」(道祖神のこと)と結び付けられたと考えています。
江戸時代には道祖神信仰と、この「犀の神」信仰の融合があったと考えることができます。
道祖神と猿田彦はどちらも道路案内の神として、二つの神は結び付けられています。
これもいずれ考察しますが
「小太郎殿持ちたもう犀の矛を鎮めて神明社の前面に犀の神を勧請したまう」
この一文。これも震えましたね。
小太郎が持っていた「犀の矛」を神明社前面におさめ、ここを犀ノ神原とし祀るとあります。
ここへきて初めて「犀の角」が、何らかの形として実在していたことが判明しました。
もともと「犀」というものを空想していた僕としては、
説が立証されたことになり、こんな風に自分の空想が肯定されることってあるのかと不思議にさえ思いました。
犀の矛として納められたものを、祀っている。
縁起ではその後、この場所が「円満寺」として神明宮と併設される様がありますので、
この神明宮の中では重要なポジションにあったと想像されます。
また、これは僕の全くの想像ですが、「船石にあったへさきを削った痕跡」と、
この「犀の矛」と「舟石」のことを同時に描いている文章から、
もともと一つのものであった「犀」を「角」と「胴体」に分け、
「角」の方を「犀の矛」としてまつり、
「胴体」のほうを「岩舟」としてまつったのではないかと考えました。
田沢神明宮縁起の別の記述箇所にも磐舟の場所を「犀の神原岩舟の」とあることからもそれをうかがうことが出来ます。
ただ、これらの検証は、「犀の角」が見つかって船石と石の組成をくらべない限りこれを立証できないのですが
いずれ、これを検証していく旅になるとは、この時点では想像していませんでした。
結論を先に述べておくと、この岩舟と犀の角を関連づけてしまったことで、
今後発見される事象に対して、大きく遠回りをすることを余儀なくされてしまったのですが
遠回りすることで発見できたことも多いので、
この誤解は
必要だったと今では思います。
昔の田沢神明宮の予想図を簡単に書いておきましょう。
いずれ書き直します。

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『(要約)猿田彦としても知られる道祖神が授けた小太郎が持っていた「犀の矛」を鎮めて神明宮前に、犀の神を祀った。
そこを「犀の神原」と云う。一の鳥居の傍らの岸部である。猿田彦は、導きの神であり天照大御神の守りの神である。
船の守りの場合は「舟魂」ともいうので、あまの岩舟を造って天照が招来するときのために、ここに置いた。
のちに、それは長い石となり船石と云う。
(この船石は)天文の頃、悪徒が石工のために矢穴を掘ったけれども壊れることなく即時に眼がくらみ人家にはいって死んだ(と伝えられている)』
と途中から田沢神明宮にあった岩船の説明になる記述がある。
ここで、道祖神と猿田彦が出てくるのは、江戸時代までに進んだ神様と神様を結び付けたり(習合)する流行の流れで出てきた思想で、この時は「犀の神」を「塞(さい)の神」(道祖神のこと)と結び付けられたと考えています。
江戸時代には道祖神信仰と、この「犀の神」信仰の融合があったと考えることができます。
道祖神と猿田彦はどちらも道路案内の神として、二つの神は結び付けられています。
これもいずれ考察しますが
「小太郎殿持ちたもう犀の矛を鎮めて神明社の前面に犀の神を勧請したまう」
この一文。これも震えましたね。
小太郎が持っていた「犀の矛」を神明社前面におさめ、ここを犀ノ神原とし祀るとあります。
ここへきて初めて「犀の角」が、何らかの形として実在していたことが判明しました。
もともと「犀」というものを空想していた僕としては、
説が立証されたことになり、こんな風に自分の空想が肯定されることってあるのかと不思議にさえ思いました。
犀の矛として納められたものを、祀っている。
縁起ではその後、この場所が「円満寺」として神明宮と併設される様がありますので、
この神明宮の中では重要なポジションにあったと想像されます。
また、これは僕の全くの想像ですが、「船石にあったへさきを削った痕跡」と、
この「犀の矛」と「舟石」のことを同時に描いている文章から、
もともと一つのものであった「犀」を「角」と「胴体」に分け、
「角」の方を「犀の矛」としてまつり、
「胴体」のほうを「岩舟」としてまつったのではないかと考えました。
田沢神明宮縁起の別の記述箇所にも磐舟の場所を「犀の神原岩舟の」とあることからもそれをうかがうことが出来ます。
ただ、これらの検証は、「犀の角」が見つかって船石と石の組成をくらべない限りこれを立証できないのですが
いずれ、これを検証していく旅になるとは、この時点では想像していませんでした。
結論を先に述べておくと、この岩舟と犀の角を関連づけてしまったことで、
今後発見される事象に対して、大きく遠回りをすることを余儀なくされてしまったのですが
遠回りすることで発見できたことも多いので、
この誤解は
必要だったと今では思います。
昔の田沢神明宮の予想図を簡単に書いておきましょう。
いずれ書き直します。

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2022年02月25日
検索 田沢神明宮縁起2 <泉小太郎伝説の実際(23)>
田沢神明宮縁起は縁起の例にもれずイザナギイザナミからはじまります。そこらへんは省いて、次に泉小太郎が現れますが、ほぼ信府統記の丸写しなので(龍や戸隠、日光東照宮なんかがが出てくる)そこらへんも省いてしまいます。
引用は、母親である犀龍で三清地(泉小太郎伝説では山清路 仁科濫觴紀では 山征地)を割いて水道を通している時の描写からはじめますが、煩雑さをさけるため 関係する部分の要約だけのせていきます。
『(中略)田沢村の南原にある「がまがふち」のほとりにて、鱗魔が怒って毒気をはきかけて、逆波が起こったため進めず、しばらく退却した。ここを尾入沢と言って田沢村の中にある。伊勢神宮の方角に祈念したところ、神の光が湖上を照らして波が治まった。そこで小太郎は「犀の広矛」で鱗魔を討ちとったら、三清瀧が出来て、水が流れた』
ここで、信府統記や泉小太郎伝説でも有名な堤開きの情景がかかれているのですが、僕は1点ひっかかりました。
この描写のなかで「犀の広矛」(さいのひろほこ)が登場します。犀龍にのっていたはずの泉小太郎が、「小太郎殿突けりし犀の広矛をもって」と「犀」を道具として使う描写があります。これは、やはり「犀」は道具で、しかも治水に使った道具、つまり古代の土木機械なのではないのかと思いました。
次に
『(要約)泉小太郎、犀川の川上にある田沢村にきてこの地に、社(やしろ)を造り天照大御神を祀り、有明の里の開拓の成就の恩を感謝した。田を開き、沢が出来たので田沢と名付けた。有明の里の開拓の最初がここである。これより人里がひらけて数万の民が繁栄した』
田沢神明宮の縁起ですので田沢をよく言っているのは間違いないと思います。
しかし、この縁起にもこの神社を泉小太郎が建てたとしていますし、「ひかるやま」の麓でもありますので、たしかに、泉太郎「ひかるくん」が治水工事後、この神明宮をたてたのではないかと考えます。
また、「神明宮」であって神社ではありません。(ひかるくんを祀っているのではなく、天照大神という神様を祀っている、つまり祖霊信仰ではない)このことは仁科神明宮との同時代性の可能性も考えても良いかもしれません。
引用は、母親である犀龍で三清地(泉小太郎伝説では山清路 仁科濫觴紀では 山征地)を割いて水道を通している時の描写からはじめますが、煩雑さをさけるため 関係する部分の要約だけのせていきます。
『(中略)田沢村の南原にある「がまがふち」のほとりにて、鱗魔が怒って毒気をはきかけて、逆波が起こったため進めず、しばらく退却した。ここを尾入沢と言って田沢村の中にある。伊勢神宮の方角に祈念したところ、神の光が湖上を照らして波が治まった。そこで小太郎は「犀の広矛」で鱗魔を討ちとったら、三清瀧が出来て、水が流れた』
ここで、信府統記や泉小太郎伝説でも有名な堤開きの情景がかかれているのですが、僕は1点ひっかかりました。
この描写のなかで「犀の広矛」(さいのひろほこ)が登場します。犀龍にのっていたはずの泉小太郎が、「小太郎殿突けりし犀の広矛をもって」と「犀」を道具として使う描写があります。これは、やはり「犀」は道具で、しかも治水に使った道具、つまり古代の土木機械なのではないのかと思いました。
次に
『(要約)泉小太郎、犀川の川上にある田沢村にきてこの地に、社(やしろ)を造り天照大御神を祀り、有明の里の開拓の成就の恩を感謝した。田を開き、沢が出来たので田沢と名付けた。有明の里の開拓の最初がここである。これより人里がひらけて数万の民が繁栄した』
田沢神明宮の縁起ですので田沢をよく言っているのは間違いないと思います。
しかし、この縁起にもこの神社を泉小太郎が建てたとしていますし、「ひかるやま」の麓でもありますので、たしかに、泉太郎「ひかるくん」が治水工事後、この神明宮をたてたのではないかと考えます。
また、「神明宮」であって神社ではありません。(ひかるくんを祀っているのではなく、天照大神という神様を祀っている、つまり祖霊信仰ではない)このことは仁科神明宮との同時代性の可能性も考えても良いかもしれません。
2022年02月24日
検索 田沢神明宮縁起1 <泉小太郎伝説の実際(22)>
田沢神明宮縁起
明和八年 1782年に書かれており、信府統記編纂から約半世紀たったころ江戸中期に編纂されています。僕の予想では仁科濫觴記くらいの古い時代のものを想定していたため少し拍子抜けしました。なぜなら神明宮にあった由緒書きには景行天皇(3~4世紀?古墳時代の天皇)12年9月16日という明確な古代の日付があったので、少なくとも平安、鎌倉くらいの伝書があるのではと思っていたのです。
そして、読んでみると、まるで信府統記を丸写しした泉小太郎伝説を主軸に戸隠神社や日光東照宮まで現れるトンデモ本ならぬでたらめ由緒で、江戸時代に流行でつくられた縁起でした。この地方にある泉小太郎、坂上田村麻呂の伝承の寺社の由緒はほぼ、信府統記ののちにつくられたものと思われ、由緒をつくるのが流行ったの?とおもったり、その頃が一般の人々が十分文筆ができる豊かな文化が生まれてきたの?と思ったり。
なんども目にした泉小太郎伝説に辟易しながら読み進むと、しかし!この田沢神明宮にしかない本当の縁起を垣間見られる箇所がちりばめられているのがわかるのです。
おそらく、この縁起の作者はこの神明宮に伝わる数少ないこま切れの伝聞を、知っていること(信府統記などの他の歴史書など)を引用したりして膨らませてまとめてしまったためこのような由緒になったと思われます。
このこま切れの伝聞から推察できるこの神明宮の歴史を紐解いてみましょう。
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明和八年 1782年に書かれており、信府統記編纂から約半世紀たったころ江戸中期に編纂されています。僕の予想では仁科濫觴記くらいの古い時代のものを想定していたため少し拍子抜けしました。なぜなら神明宮にあった由緒書きには景行天皇(3~4世紀?古墳時代の天皇)12年9月16日という明確な古代の日付があったので、少なくとも平安、鎌倉くらいの伝書があるのではと思っていたのです。
そして、読んでみると、まるで信府統記を丸写しした泉小太郎伝説を主軸に戸隠神社や日光東照宮まで現れるトンデモ本ならぬでたらめ由緒で、江戸時代に流行でつくられた縁起でした。この地方にある泉小太郎、坂上田村麻呂の伝承の寺社の由緒はほぼ、信府統記ののちにつくられたものと思われ、由緒をつくるのが流行ったの?とおもったり、その頃が一般の人々が十分文筆ができる豊かな文化が生まれてきたの?と思ったり。
なんども目にした泉小太郎伝説に辟易しながら読み進むと、しかし!この田沢神明宮にしかない本当の縁起を垣間見られる箇所がちりばめられているのがわかるのです。
おそらく、この縁起の作者はこの神明宮に伝わる数少ないこま切れの伝聞を、知っていること(信府統記などの他の歴史書など)を引用したりして膨らませてまとめてしまったためこのような由緒になったと思われます。
このこま切れの伝聞から推察できるこの神明宮の歴史を紐解いてみましょう。
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2022年02月24日
検索 豊科図書館 <泉小太郎伝説の実際(21)>
さっそく豊科図書館に向かいました。
マップ 豊科図書館
豊科は近年、近隣の 豊科町 明科町 穂高町 堀金村 三郷村が平成の大合併で合併し安曇野市となりました。少し前になりますが、NHKの朝ドラ「おひさま」が放映されましたが、あの時の舞台がこの安曇野市で、ちょうどあの放映あたりの合併だったと記憶しています。主人公がやけに「安曇野に行ってきた」というセリフを多用していましたが、「安曇野」の名前のPRに熱心だった安曇野市からの依頼だったのでしょうか。あの時、主人公の「安曇野に行った」とセリフに「その時代に安曇野に行ったなんていう人いなかったでしょ?」(笑)と突っ込んでいました。
今ではすっかり「安曇野市」も定着し、穂高連峰に安曇野の湧水、そば、わさびと観光業での充実とともに、自然や風景や文化施設の充実などから、子育てしやすい都市になりつつあります。
さて、高鳴る胸をかかえつつ、豊科図書館に行って郷土資料コーナーに向かいました。そこで愕然。そこには安曇野市誌からはじまり豊科町誌、明科町誌、穂高町誌、堀金村誌、三郷村誌と6種の誌がずらっと並んでいます。
でも、探すべきは豊科町誌だろうと思い探しても、全然見つからない。こういった町誌を探ったことのある人なら一回は経験したことがあると思いますが、町誌といっても1冊ではなく、ジャンルによって何冊も分冊があり、また何度も刊行されているため、どれを調べてどれを調べてないかもわからなくなります。そして、田沢神明宮の情報がないかと調べて見つからなかったため、次は明科町誌に手を伸ばしました。
その理由は、「ひかる」地区は実は「明科光」と「豊科光」と旧明科町と旧豊科町によって分断されていたため、明科にも「光」の地所があるからです。ただ光城山、田沢神明宮は豊科地所であるため、そちらから調べてみたのですが、もし「ひかるくん」の時代からそこが栄えていたとしたら、明科こそが「ひかるくん」の本拠地であった可能性が高いのです。
なぜなら豊科にとっては「ひかる」は犀川をはさんだ向こう側のはずれである一方、明科にとっては犀川のこちら側の地つづきの場所であるからです。

それで明科町誌を検索してみてもやはり地番が豊科のためか、田沢神明宮の記述が見当たらない。今度は合併後に出されたと思う安曇野市誌をみても結局分冊の集合といった感で見当たらない。
高鳴る胸をいだいてきたのに失望し、この後、どうやったら田沢神明宮の氏子と遭遇できるかという、僕にとっては七面倒な課題が出されたのです。
でも、あきらめきれず素直に司書さんに聞いてみることにしました。なぜなら田沢神明宮にあった文章は、絶対に古文書からの引用に間違いなく、僕にとっては古文書の存在は確かなものであったため、豊科町誌にはなくとも、何かしらの資料が豊科図書館にはあると確信していたからです。
そこで司書のかたに尋ねてみました。
「すみません。田沢神明宮について調べていまして、田沢神明宮の由緒書きのような資料はないでしょうか」
実は田沢神明宮はウィキペディアにも載っておらず、グーグルマップにも載っていない神社でしたから、そもそも司書さんも知っているかどうかあやしいかもと思い、恐る恐る聞いてみました。
すると
「あったと思います。わたし、あそこが地元で毎朝あの前を通るんです」となんと地元の人。
まあ、地元の図書館ですからあると言えばある話だとは思いますがなんという偶然。
「たしか豊科町誌に載っていると思います」と
さきほど僕が探した場所に行き二人で探すことに
「あれ?どこかでみたんだけどな?」となかなか見つからず「明科のほうにあるのかな?」と先ほど僕がたどったのとまったく同じルートをたどって
「すみません。絶対あるので電話番号を教えてください」と言っていただき、電話番号を教えながら恐縮し「いやいや、急いでいませんし、趣味でやっていることなのでわかったらでいいのでお暇なときに教えてください」と頼んで後にしました。
すると30分も待たずに電話がなり、「みつけました」の情報。
すぐにまた豊科図書館にもどりました。
「やはり豊科町誌に載っていました。結構なページを割いてます。 縁起も全文あります」
確かに、ウィキペディアにも載っていない一神社としては破格の1ページ2段組の20ページ超にもわたる力作。下手すると穂高神社の記事より長い(笑)
僕は心の中で「ビンゴ!」と叫び、無心にそのページを読みふけるとともにコピーをさせてもらいました。
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2022年02月23日
検索 田沢神明宮4 <泉小太郎伝説の実際(20)>

「天の磐舟をつくったら、石の舟に変ぜり」とありますが、磐舟も石舟も同じもので「変化」とは言いにくく「変ぜり」という表現がおかしい。おそらくもっと長い文章が要約されたときに取り違いが起きたのではないかと考えました。
とにかく穴をうがちとあるからよく石を観察してみると岩の先端のほうに、あきらかに切り取られたような跡だと思う痕跡がある。
岩の先端だけ盗むって?どういうこと?って思いますよね。この時点での僕の想像は、おそらくこの岩の先端には、印象的な何かがあったのではないかと推察したわけです。でないと盗むとは思えない。
となればますます、土木機具として使われていた「犀」なのではないかと考えました。つまり犀龍とは、古代の土木機具。しかも治水開発部隊、白水郎のつかっていた道具ではないかと。。。
ここへきてこの磐舟の想像図。

さて、ここまでわかったらあともう少しです。
ここにある石碑の情報も、由緒書きもかなり細かい情報が書かれています。由緒書きには、「景行天皇十二年九月十六日創立」とありますし船石の説明にも「天文年間」と具体的な年代がわかる内容の言葉があります。
この文章にはまず間違いなく、もととなる古文書が存在しているはずです。でないとこんなに細かい情報は書けない。となると僕の進む先は、この光城山がある「豊科」にある「豊科図書館」です。
豊科町史を開けば、この神社の由緒が見つかるかもしれない。そう思い豊科図書館に向かったのです。
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